必殺、読書人!!

 

360:社会一般




「スロー・イズ・ビューティフル」  辻 信 一 著   平凡社

 現代の社会のあり方のみならず、それに歪められている一人ひとりの生活のあり方について警鐘を鳴らしている本です。この本を読むと、いかに私たち現代人が生活の無意識のレベルで歪んだ現代文明に侵食されているかが良く分ります。よく人間と自然との対抗関係で“自然を大切に”という文句が語られたりしていますが、人間も自然の一部分である以上、最終的に人間の作り出した文明の犠牲になるのは人間自身です。しかし、不幸なことに、人間への文明の侵食は私たち人間自身にはあまり気づかれない形で進行していきます。当然のことながら、文明社会が人間の作り出したものである以上、あからさまな危害がそのままにされることはないでしょう。問題なのは、人間の生活のあり方が無意識のレベルで歪められ、それが習慣として定着してしまうことです。私も『独在論の誘惑10』で書いたのですが、現代社会においては人工物が氾濫しています。そんな中で自然本来の感覚は失われ、人間が本来持っているはずの生きる力が失われてきています。最近「ファースト・フード」という言葉に対抗して、「スロ・フード」という言葉を聞く機会も増えてきました。しかし、スロー・フードと言っても、それはゆっくり豪勢な食事を取るということではなく、質素ながらも手間をかけた昔ながらの食事を取り、人間が本来持っていた味覚を取り戻そうという意図があるのであり、それが「スロー」という言葉に込められた意味なのです。

 著者である辻さんは「スロー」という言葉で現代社会の考え方をさまざまに問い返しています。現代社会で私たちの生活のすべてが何かのための手段と化していないか? そのために今を生きることが見失われていないか? その一方で、時間や空間が単なる邪魔者として克服される対象としてしか見られていないのではないか? また、人々は近代において「共通のゴール」という物語のために自らを縛っているのではないか? これらの問いかけが、私たちが無意識のうちに生きている現代のあり様に対して疑問を投げかけています。「スロー」を主張するからといって、それは必ずしも「ファースト」であることを否定するものではないでしょう。しかし、まずは「スロー」であることの価値を見い出すところから、私たちははじめなくてはならないのかもしれません。

 もしこの本に問題があるとすれば、「スロー」という言葉が現代の社会のあり方に対する否定的ニュアンスが強すぎて、単なる「ファースト」な現代社会の対抗関係の中でしか捉えられかねないのではないかということです。「スロー」であることの本質は「遅い」ということではなく、「自分らしく」「自分のペースで」ということではないかと私は思います。近代において個人は常に何らかの目的を追うべき存在と見られてきました。そのために、人々は無意識のうちに何かに追われている生活を送るようになったのではないでしょうか。しかし、その一方で、人々はそれを補うかのように文明社会の提供する快適さに依存するようになったようにのも思います。

 “忙しい”とよく人は口にしますが、その原因は他者と自己との関係にあると私は考えています。会社などに勤めている人は一定の期限内に自分の仕事を済ませなくてはなりません。よく個人は社会の歯車だといいますが、歯車であればこそ狂うことが許されないのです。ここには“社会の中で個人が他者と強制的に結び付けられている現実”があります。個人のミスは全体に迷惑を及ぼしかねません。また、現代の競争社会では余裕を切り詰めて、ぎりぎりの形で計画を立てることも良くあることです。旅行などを考えて見れば良く分るのですが、きっちりと細かく計画立てられた旅行はトラブルに弱いものです。もし台風が来て交通機関が動かなくなったり、一緒に旅行をしている誰かが迷子になったりしたら、旅行全体のスケジュールが狂ってしまいます。私は以前公務員をしていましたが、公務員の世界では仕事が「ずる」という言い方をします。組織全体が足並みをそろえて、間違いなく仕事をしなくては本当に仕事は「ずらない」のです。

 また、地方の田舎に行くと、まだまだ近代的な「ファースト」な暮らしに憧れている人が多くいます。実際、彼らの生活を見ると「天然スロー」ではないかとさえ思えるのですが、彼らそのスローな暮らしを劣った暮らしと考えています。少しでも都会に追いつきたいために多くの公共事業を要求するのも彼らです。しかし、彼らの望みがかなったらどうなるでしょうか。私は先日ある地方都市に行ってきたのですが、ここではまだスローな暮らしが残っていました。ここではいずれ高速道路が通るそうですし、地元の人たちも強くそれを望んでいます。けれども、仮にのその望みがかなったならば、「天然スロー」彼らの多くは都会資本の餌食になってしまうでしょう。すでに不況のために以前あったデパートはなくなっていました。商店街がそれと隣接する形で延びているのですが、仮に高速道路が出来れば、車によるお客を当て込んだ大型商業施設が駐車場の確保できる別の場所に出来る可能性はかなり高いといえるでしょう。しかし、そうなれば地元商店街は大打撃を受け、それとともに今までのような貧しいながらも満たされた生活は出来なくなるでしょう。

 このような地方都市では「スロー・ライフ」とか「スロー・フード」という言葉はあまり一般的ではありません。「スロー」という言葉が聞かれるのは、主に「ファースト」な都会の方です。ところが、大分県では「スロー・フード」を売りにして村おこしを始めようという話を聞いたことがあります。皮肉なことに、「スロー」に憧れる都会人の願望が「天然スロー」の地方を巻き込んで「ファースト」状況を広げてしまう危険がここにあります。単に「スロー」であることを自分たちの生活の中に取り入れようとしても、それだけでは不十分な複雑な現実があるのではないでしょうか。

 私はこの本に関してあまりにも表現が文学的ではないかという印象を受けました。文学は現実の問題点を露にしますが、それを解決する方向性を示唆してはくれません。確かにこの本の中では「スロー」を目指すさまざまな取り組みが紹介されています。その中には技術のあり方を通して、新しい可能性を示唆するもの(ダグラスによるシンプルな技術の提唱 66p)などもありました。また、第十章の「スロー・ボディ、スロー・ラブ」では身体論の立場から現代文明の根本的問題点が哲学的に考察されていました。しかし、にもかかわらず、そのような観点はこの本ではより深く突っ込んで考察されているようには思えません。ここでより深く突っ込むということは、それらの取り組みを総合的に連関させて、具体的なシステムとして「スロー」の概念を提示することです。つまり、経済的観点を基盤とし文化人類学的観点もなどを含めたあらゆる学問的観点から現代文明のあり方を変える処方箋を考える必要があるということです。

 私はそのためには「スロー」の概念を先に述べた“社会の中で個人が他者と強制的に結び付けられている現実”から考え直す必要があるように考えます。「スロー」というのは“余裕がある”ということです。余裕があれば、さまざまなトラブルに対しても柔軟に対応することができるでしょう。ところが、競争社会の中で社会全体ができるだけ余裕を切り捨てた形で計画を立て、それを実行しようとする傾向が強くなります。そのしわ寄せがすべて個人に襲いかかり、各人は出来るだけトラブルが起きないように細心の注意を重ねながら仕事をしなくてはならなくなります。仕事のストレスのほとんどは、予定された計画どおりに、少なくとも表向きだけでも計画どおりに物事が進んでいると見せかけるために、個人が無理をしているところから生まれてきているといっても過言ではありません。そして、この個人にかかる無理は単にその個人だけにとどまらず、次々とその周囲へと広がっていきます。家族の問題、教育の問題、これらの問題の背景には、父親を中心とした仕事における個人への過度な負担があるわけです。

 人間には本来ケチの本能ともいうべき、無理を避ける本能があります。大分弁で言えば「ガナない(割に合わない)」ことは「よだきい」と言ってせず、「酢も作れん(役に立たない)」話をする人に対しては、「せせろしい」と言って、「たいらく(大楽)」言いながら「よこう(休む)」というところでしょうか。しかし、今日ではこの健全なケチの本能も危機に瀕しています。この本では、私たちの無意識のレベルに浸透する「習慣」という観点からこの問題の奥深さを明らかにしています。「スロー」という概念はその習慣の観点から導き出されたものですが、より正確にいうならば、各個人に「ファースト」生きるか「スロー」に生きるかの選択権が与えられていないところが問題だといえるのではないでしょうか。私は、次の本では、このもつれた状況を的確に分析し、「スロー」の考えをもとにより突っ込んだ提言がなされればと期待しています。
 
 

「情報文明論」 公文俊平  NTT出版

 大分にあるハイパーネットワーク研究所の所長もされている公文先生の書いた本です。この本を読むと、文明を論じるためにはいかに多くの視点を持たなくてはならいかを痛感させられます。実に、それが論じている分野は多岐にわたっています。結論として提示されているのは、最後の方に出てくる「智のゲーム」や「具身界」の出てくる部分ではないかと思いますが、そこに至るまで背景として多くのことが述べられています。

 まず、問題になるのが、今の時代が歴史の大きな流れの中でどのような位置にあるかということです。世間ではよく「近代の超克」とか「ポストモダン」などという言葉が聞かれますが、新しい時代が目の前に迫っているにしても、それがどのような時代であるかは過去のことをよくよく分析していなくては解き明かすことが出来ません。この本では、文明の進化の仕方を「限定型」と「包括型」に分け、現在の時点を「限定型」の終わりの段階と位置づけています。この「限定型」とは一定の特殊な方向へ発展させていくもので、いわば「近代的進歩」の理念に見られるものです。これに対して、「包括型」とは人間の発展の能力をより広く普遍化し、全体として調和のとれたものとしていく発展のあり方です。たとえて言えば、「限定型」の発展は上へ上へと何かを積み上げるような発展の仕方であるのに対し、「包括型」は横へ広がる発展をイメージすればよいかと思います。この2つの発展のあり方は歴史上、交互に現れているのですが、上へのの積み上げが土台の制約により一定の限界を迎えるように、「限定型」で進んできた近代の歩みもそろそろターニングポイントにさしかかっていると言えるでしょう。

 実は、私は「スペイン追想/はじめに」の部分で歴史のインパクト理論というのを提示しているのですが、これを思いついた背景にはこのような多系的な歴史の流れの認識があります。また、《Anime Key WORDS Hunter》の中で『特殊化の果てにあるのはおだやかな死』という「Ghost in the Cell」からのセリフを取り上げたのもそのような歴史意識があったからです。近代の限界を意識し未来の文明のあり方を見出すにはこのような歴史的視点を欠くわけには行きません。この本では、紙面の都合上、あまり突っ込んだ論議はなされていませんが、文明論を展開する基盤として最初にその歴史観が提示されています。

 次に、私たちの日常的コミュニケーションのあり方が主体の行動原理として細かく分析されます。正直言って、ここが一番読むのにしんどい所なのですが、個々人のコミュニケーションのあり方からそれらの相互の関係、更にはそこから現れ出る(最近はやりの複雑系の文句を借りれば「創発」する)社会を考察するやり方は手堅いものと言えるでしょう。先の歴史からの文明論へのアプローチがマクロからのアプローチとするならば、こちらはミクロからのアプローチだと言えます。実は、この部分は今私が取り組んでいる日本語教育の問題と深い関わりを持っています。日本語は微妙な人間関係を敬語や婉曲的な言い回しで表現しますが、それらはコミュニケーションにおけるこの主体の行動原理を反映しているものです。この本の分析ではまだ十分にその理論の裏付けが示されていないうらみもありますが、個人的感情がいわば表現として露出している日本語の考察を通じてこの分野の研究は進展できるのではないかと私は考えています。いずれにしても、歴史的な視点とこの個人の行動原理の視点とは文明論のみならず、将来構築さるべき総合的社会学のための2本の大きな柱となるでしょう。

 このような、基礎的考察を踏まえた上で、この本では日本人、もしくはその社会に対して考察がなされます。内容としては従来の日本人をまとめたものとも言えるのですが、現象世界を唯一の世界と見なし、形而上的存在を認めないなど普遍意識に乏しい日本人の世界観を的確に指摘していると思います。

 これらの前提が整った上で、ようやく将来の文明としての「情報文明」が提示されるのですが、ここでの柱はネットワークとしての社会を解明するゲームの理論とバーチャル・リアリティに代表される具身界の理論と言うことになるでしょう。前者について公文先生の考えはすでに「智のゲーム」や「智民」の言葉と共にかなり知られているようです。この考えはトフラーのパワーシフトの考えに沿ったものとも言えるのですが、近代が軍事力や経済力などの物質的な力によって展開されていたゲームであるのに対し、将来の文明は情報を主軸とした「智のゲーム」の時代であるというのがこの主張です。公文先生は日本人はこの新たな「智のゲーム」でも活躍できるのではないかとおっしゃっていますが、私はこれには悲観的です。というのも、この「智のゲーム」では考えの前提を異にする人々の間でのコミュニケーション能力が問われますが、先に述べたように、形而上的存在を認めない日本人はその前提を反省し、他者にも分かる言葉で表現する能力に欠けているからです。日本語教育の現場では、日頃、当たり前と思っていたことを説明できなくて窮することがあるのですが、このことはいかに私たちが自らの考えの隠れた前提に無関心であるかを物語っています。

 ところで、次に出てくる「具身界」のことですが、これが最も私にとって問題の多い箇所となりました。この「具身界」の概念で示されるのは単に実在と対応しそれに働きかける道具としてのコンピューターによる情報世界のことではありません。それは実在とは別に、それ自体自己完結したヴァーチャルな世界です。「智のゲーム」から必然的に導き出されることではありますが、情報のやりとりに依存する新しい文明はかつての軍事力や経済力による文明と比べてエネルギーに依存する割合も低下し、またそのエネルギーの使用による環境破壊などの副作用も出にくい社会ともなります。これは、私流に言えば、エネルギーの保存則から解放された社会ということになりますが、この解放はまさに実在からの解放でもあり、そこに情報によってコンピューターネットワーク上に構成された「具身界」が登場してくる余地が出てきます。これは実在とは独立したものとしては夢と同じようなものですが、ネットワーク上に展開するという点で、同時に社会的な存在でもあります。公文先生は実在の世界である現実界と具身界とを分けておられますが、この2つの世界がいかに結びつけられるべきかについては無関心のままのように思えます。この本の記述を見る限りにおいて、具身界は環境破壊などに見られるように実在界で飽和した人間のエネルギーの単なるガス抜きのような感じを受けてしまいます。

 具身界はいわば実在から独立した主観的な観念の世界です。このような世界は以前からもありましたが、これは決して実在の世界と無縁にあったわけではありません。むしろ、宗教的神話や思想の形を取って人間の行為を規定してきたとも言えます。いわば、人と現実の世界とを繋ぐ基本的なOSの役割をしてきたとさえ言えます。このような世界が具身界という形で新たに展開されることは人間の内的な世界と外的な世界との間に新たなひずみを生む可能性をもたらします。

 実は、この問題はすでにアニメの世界では、押井守さんの「ビューティフル・ドリーマー」以来、大きなテーマとなっています。それはアニメがある意味で純粋な虚構の世界であるからなのですが、その一方で人の心に訴える物語を展開すべき場でもあるからです。そこでは何よりも価値の問題が重要な位置を占めます。確かにアニメもエンターテイメントですから、快不快の原則に従って快を求めるところはありますが、より以上に人の心を感動させる必要があるのであり、そのためにはたとえ虚構であってもそれなりの価値観に基づいた物語を展開しなくてはなりません。文学や小説を含めた物語が真実であるのはそのような意味においてです。しかし、この本では具身界から発する実在界にも通じる真実に対して眼が向けられていません。

 もしこの真実がなおざりにされたまま具身界が増殖するならば、大変危険なことになるでしょう。このことをはっきり示していたのが「lain」というアニメです。公文先生の現実界と具身界の言葉を「lain」の中に出てくる「リアルワールド」と「ワイヤード」の文句に置き換えればそのことははっきりします(《Anime Key WORDS Hunter》参照してください) 。この物語りではもともとワイヤードは私たちの現実世界であるリアルワールドと根源的な実在とを繋ぐ情報世界でした。ところが、このワイヤードがリアルワールドの上部階層と誤認されたために物語は危険な方向へ展開して行きます。ヴァーチャルなな世界では往々にして人々は快楽に走り、不都合な事柄をリセットしてしまうものです。しかし、具身界がヴァーチャルな世界であっても、それが一つの完結した世界として物語りを綴るとすれば、決してその世界は安易にリセットされるべきものではありません。というのも、それによって失われるのは単に具身界での情報データーだけではなく、実際にに生きる人々の存在感だからです。

 このような危険に対して公文先生は具身界の中に規制を設けるべきだと主張されていますが、それは二次的なことに過ぎません。最も大切なことは、具身界の中に現に生きる人々の物語を展開することであり、そのことによって私たちが日常を越えた真実に、自らの人生の価値に眼を向けることです。もしそれが出来ないのならば、具身界は根源的な実在から人々を遠ざけ、その存在をより透明なものにして行くでしょう。この問題こそ将来の情報文明の課題であり、公文先生の説かれる「智のゲーム」における主題となることと思います。
 
 

「南の発見と自立」 小川晴久   花伝社
 

 一時、プラス思考がブームになった時、思考は現実化するのであるからマイナス思考ではなくプラス思考を持つことが大切だと言われたことがあります。この真偽は別として、人間の思考が行動を規定する以上、その思考の欠陥が人間の行動を通じて現実化することは十分あり得ることです。

 近代において、この人間の行動を最も規定してきたのがデカルト以来の二元論でしょう。私、そんなの知らないよ−という人にもその常識の中に無意識に入り込んでいるのがこの二元論の発想です。普通、私たちは今向き合っているコンピューターに心があるとは思っていませんし、コンピューターのみならずあらゆる機械には感情があるはずもないのだから、そのトラブルはそれを作り操作する人間の側に問題があるのだとごく当然に思っています。人が作っているものについては、さしあたりそれで問題ないのですが、自然そのものが相手になると果たしてこの発想で割り切れるのかどうか問題があります。何故なら、人間そのものがこの自然から生まれたものであり、それは単なる人間の操作の対象ではないからです。

 前置きが少々長くなりましたが、この本は「梅園学会」でいつもお世話になっている小川晴久先生の著作です。先生の指摘する「南」と「北」との関係はこの「こころ」と「モノ」との二元論的発想の一つの帰結と言えるのではないかと思います。つまり、「北」は操作するものとして「こころ」の側に立ち、「南」は操作されるものとして「モノ」の側に分けられているということです。このような二極分化は「北」が「南」を搾取する〈構造的暴力〉という形で現れていますが、その一方で「南」は「北」のように発展しなくてはならないという「北」の優越性の感情にも現れています。小川先生自身はこの本の中でデカルト以来の二元論に触れているわけではありません。けれども、安易に「北」をモデルとする考えを否定ししつつ、「南」の中に将来の人々の生き方の指針があるとする点においてこの二元論を克服する道を模索していいる様子が窺えます。

 例えば、小川先生はGNPが「北」の世界のあらゆる社会的評価基準になっていることに疑義を唱えます。今でこそGNPが表だって評価の基準となることは少なくなりましたが、いまだに「経済成長率」という形で社会の健全さを示す基準になっています。つまり、経済的豊かさが進展することが社会の健全さを示す目印になっているということです。けれども、この基準の中には自然環境の問題が考慮されていませんし、また経済的に発展することがそのまま私たちの利益に繋がるわけでもありません。例えば、本書でも述べられているように、交通事故で死傷者が増え医療費・修理費が増えてもGNPはは増加しますし、極端な話、戦争を起こせばGNPはもっと増加します。最近消費拡大を望む向きもありますが、これは私たちの利益(経済学で言えば「効用」)に関係なく経済を成長させなくてはならないと主張しているに等しいことになります。

※本書の中のこの主張は、経済学者の宇沢弘文氏によるものですが、私もすでに「文化と文明とについて(8)」で〈無効需要の増大〉として定式化しています。

 ここで問題となるのは計測可能な数値として示されるGNPが計測不可能、もしくは困難な私たちの個人的利益(効用)から離れて一人歩きしていることです。そもそも、デカルトは計測できる延長を持つものとしての物質とそうでないものとしての精神とを分けましたが、ここにその二元論の問題が出てきているわけです。デカルト自身はこの二元論を神様を仲介にして一つにまとめられると考えていました。けれども、その後の人々が彼のように信心深いわけでもないので、「北」の「南」の搾取を通じて「モノ」の暴走が始まっているというわけです。

 ここまで来ればお分かりのように、この「北」と「南」との関係は単に経済・社会レベルでの「北」と「南」との関係にとどまるものではありません。それは経済成長のために特殊化し社会を発展させようとする「北」の立場と、極端な特殊化を避け自然の中でバランスを取って生活を維持しようとする「南」の立場との対立です。無論、「北」の特殊化も「南」のバランス感覚も共に人間には必要なものです。けれども、今はあまりに「北」のイデオロギーが「南」のイデオロギーに対して優先されているのではないでしょうか。

 小川先生はこの異常なまでの「北」の優越をマルクス、三浦梅園、王船学や朝鮮実学の思想、更にはマオリの人々の価値観から分析し、解決の糸口を探ろうと試みます。これは一言でいえば、近代以降に顕著になった人間たち(社会)の暴走をいかにして自然本来のあり方に引き戻すかということです。「南」の発見とは単に「南」の国々の現状を知ることではなくて、自らの世界に本来の自然を発見することのなのであり、そのことによって個々の人間自身が自立して生きる術を見出すことと言えるでしょう。

 その意味で私が注目するのは、この本の後半に出てくるシモーヌ・ヴェーユの思想です。彼女は20世紀前半の若くして亡くなったフランスの哲学者です。小川先生はヴェーユの思想を性善説の思想と結びつけて論じておられますが、これを私は人間が自然の一つとしてその秩序を取り戻すことが出来る、少なくともその可能性はあるとする主張として捉えています。ヴェーユはカトリックの立場に立つ宗教哲学者としても有名な人ですが、人の本来のあり方を求めている点においては洋の東西を問わず変わらないものがあります。未来のために私たちが思想の面で貢献するためには、今まで先人たちがどのような形で内なる自然を発見し、より広い宇宙としての自然との絆を模索してきたか問い直す必要があるでしょう。

 なお、この本の中の「自立とモラル」と「私の中の南」の章の英訳も載っていますので、英語の勉強にもなります。
 
 

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