天国への扉(6)


  その日の夕方、島のそばをスコールが通り過ぎた。約一時間ばかり雷が鳴り続けたが、結局、島には雨が降らなかった。老人は夕食を早めに済ますと、お礼を言うために先生の所に赴いた。老人が先生の部屋に入ると、先生は机の上で何かを書いていた。
「どうも、お世話になりました、相当に危ない状態だったそうですね。」
「いえいえ、とにかく村上さんが無事で安心しました。」先生はそう答えると、座っていた椅子の向きを老人に向けた。「どうぞ、こちらへ、座ってください。ようやく落ち着きましたね。今まで元気だったから油断してたんでしょう。多少、心臓に問題があったようですが、一時的なものですから特に心配はありません。今まで通り、薬を服用してくだされば大丈夫です。」
 先生はいつものように穏やかな調子で老人に語りかけた。
「いや、ありがとうございます。私のような年寄りをここまで面倒見てくれて、・・・」老人はしばらく言葉に詰まった。
「先生、私は結構長う生きておりますが、今までのことが正直言って夢か幻のように思えとったんです。年のせいかもしれませんが、今までの日本のことも、そして昔の戦争のこともです。それで時々、自分がもう本当はボケとって誰もおらん部屋でひとりぶつぶついいながら夢を見とるんじゃないかとさえ考えとったんです。ほら、よーあるでしょう、酔っぱらいが郵便ポストに向かって説教をしているって話が・・・、」
「私が郵便ポストですか。」先生は笑って答えた。
「いやいや、これは冗談ですが、本当にそこまで思いつめることもあったんです。ところが、今日マリアさんにちょっと叱られましてね。私が死んでも誰も悲しんでくれないって愚痴ったんですよ。そしたらマリアさんが『ソレハチガウデス』って私を睨むんです。有り難いことですね。私はまだ独りじゃなかった。私が死んでも少なくとも二人はそのことを悲しんでくれる。日本を出ると決めた時、私はもう死んだも同然と思っとったんです。でもここに来て生き返った。本当に有り難いことです。これも先生やマリアさんのおかげだと思っています。」
老人はまた少し言葉を詰まらせた。
「けれども、まだ私には気になることがあるんです。」
「それは何ですか?」先生が尋ね返した。
「実はね、私はあの時、あの死にかけとった時、夢を見とったんです。いや、それは本当のことだったのかもしれない・・・。」
それから老人はあの赤い洞窟の世界のことを話し始めた。かつての戦友のこと、朴さんのこと、階段の向こうに見えた青い光のこと、そして最後に山の壁から突き落されたことをである。
 先生は静かに老人の話に耳を傾けていた。さっきまで僅かに残っていた夕日のなごりもすでに消え、星を映す夜の闇から涼しい海の風が部屋の中に入り込んできた。老人は話を終えると、この夢のことについて先生に尋ねた。
「夢というのはそれ自体は現実でないにしても、現実のことを現実以上に教えてくれることがあるものです。」先生はゆっくりと語り始めた。「確かに村上さんが出会った世界には真実があるような気がします。」
「たとえそれが本当のことではない、夢だったとしてもですか?」老人は問い返した。
「ええ、そうです。ひよっとしたらその世界はただの夢の世界だったのかもしれないし、本当に現実にある世界なのかもしれません。でも、そんなことより大切なことがあるのです。私は村上さんの見た世界を本当の地獄だと思います。」
老人はうなずいた。先生は更に話を続けた。「私はクリスチャンなのでいちおう地獄の存在を信じています。キリスト教では悪い人々は死んだ後、地獄の竈の炎で焼かれると信じられています。でも、思うに、その竈の炎はいったいどこから来るのでしょうか? 神様がわざわざそんな人々を焼くために竈に何かを入れて火を焚かなくてはならないんでしょうか? 人間はもともと欲望の塊です。ですから、地獄では彼ら自身の欲望が炎となって自らを焦がす、そう思うんです。」
「確かに朴さんも言ってました。ここでは自分の欲望を好きなだけ満たすことができると・・。」
「そう、そこなんです。地獄に導かれた人たちは自らの欲望のために、ただそれだけのために炎に焼かれ消えていくんです。後には何も残りません。ただ消えてしまうのです。」老人は先生の言葉に一瞬たじろいだ。だが、次の瞬間、先生に再び問いかけた。
「そう、そうでしょう。でも、朴さんはあの時、私のかつての仲間たちについては違うようなことを言っていました。これはどういうことなんでしょうか?」
「私たちカトリックの教義では地獄のほかに煉獄という世界も信じられています。確かに村上さんの昔の仲間たちは地獄にいて欲望の炎にさらされているのですが、ほかの人々とはその意味が違うようですね。」
「それはどういうことでしょう?」老人が問い返した。
「煉獄というのは死者の魂が天国に入る前に火によって罪を浄化する場所のことです。私たちの考えではそれは天国と地獄との間にあることになっているんですけど、村上さんの話だと、同じ地獄の中に煉獄が同居してるみたいですね。だが、いずれにしてもその世界で天国へ行く者とそのまま地獄で消えていく者とが巧みに分けられているような気がします。彼らはしばらくあの世界で働き続けるかもしれませんが、罪を知ればその世界から出られると思います。」
「罪を知る・ですか?」
「ええ、そうです。朴さんも言ってたでしょう。彼らは自分の努力だけを信じて神の赦しを請おうとしてるって。人には努力や根性だけではどうにもならないことがあるんです。けれども、それを互いに認め合うことによって、人を知り、人を愛することができるんです。私は村上さんと話しているといつも感じるのですが、村上さんにとってこの島で戦争をしたこと、戦争の名のもとで人を殺したことが大きな重荷になっているようですね。何故あんなことになったのかと。でも考えてもごらんなさい。もし村上さんがもっと後の時代に生まれて、たまたま戦争に行かずに済んで、人を殺さずに済めばそれでいいんでしょうか? あの時は上官の命令は天皇陛下の命令であり、それは絶対であったと聞いています。だとすれば、たまたま無茶な命令を受けた人だけが罰を受けて、たまたまそんな命令を受けなかった人が罰を受けないというのはおかしいんじゃないでしょうか? 人間というのは弱いものです。だから、生きるためには罪を犯すものなのです。けれども、もしその人が自分の弱さを認めて、自らの罪を知るならば、少なくとも今までと同じようには罪を犯すことはなくなるでしょう。私は正直言って、村上さんを尊敬こそすれ、かつての戦争犯罪者だからといって憎む気は全くありません。それは村上さんがいつも自らの罪を告発する良心の声に忠実だからです。私は村上さん以外にも多くの日本人を見てきました。かつて戦争へ行ったという日本人も含めてです。でも、彼らの多くは自分の罪を認めようとしませんでした。かつての戦争が『侵略』であったことすら彼らは認めようとしないのです。恐らく彼らはもしかつての戦争が『侵略』だったなら昔の彼らの苦労、そして戦死していったかつての仲間の死が無意味になると思っているのでしょう。それは彼らが本当の意味で罪を知らないための恐れなのです。もしあの時代に私が日本人として生まれていたとしても、彼らと同じ行動をとったでしょう。ですから、彼らの過去をその行いの故に責めることは私にはできません。けれども、私にとって赦せないのは、彼らが戦争で体験した自らの弱さに目をつぶり、『私には罪がない、責任がない』と言い続けていることです。彼らが体験した罪は人間の持っている根本的な弱さから来るものです。だから、彼らだけを人殺しとして責める権利は誰にもありません。しかし、『私には罪がない』とあくまで主張し続けるなら、彼らは人殺しのままということになります。それは戦争が与えた貴重な教訓にもかかわらず、人の罪に目を閉じているからです。このような人々はまた同じような形で罪を犯すでしょう。その罪はもう赦されるものではありません。
 実は、私にはそのことを思い知らされたことがあるのです。天安門事件のことは村上さんも御存知のことでしょう。あの時、私はあの広場で仲間たちと一緒に座り込みをしていたんです。この事件は、結局、武装した人民解放軍が広場に突入するという最悪の事態で終わってしまいましたが、本当は誰もそれを望んではいなかった。私たちはもちろんのこと、共産党の幹部の人たちでさえ望んでいなかったようなのです。覚えていらっしゃるでしょうか、最初に広場に送られた軍の人々は私たちに非常に好意的でした。誰も人殺しはしたくないし、させたくもなかった。彼らも私たちも何が罪かを知っていたのです。けれども、事態が進行して行くにつれて、共産党の方も私たちの方もどうしてよいのかわからなくなってしまいました。そんな時に私たちに送られたのが私たちと言葉の通じない人々による軍隊です。彼らは前の人たちと違い、何が罪であるかを知っていなかったのです。あの時、誰もが罪を犯すことに躊躇していました。だから罪を知らない人々が私たちに差し向けられたのです。結果的に彼らは道具として罪を犯してしまった。罪を知らない者たちが罪を犯そうとする者に利用されたわけです。いずれは彼らもあなたたちと同じように罪を突きつけられることになるでしょうが、罪を知ることなしには救われることはないでしょう。
 不幸なことに日本人の多くは自らの過ち、無力、罪などをどのような形で清算すればよいのか、赦してもらえるかを知りません。私たちは神様を信じているかぎり、罪は人にとって根本的なものであり、それ故に赦しが得られることを知っています。しかし、多くの日本の人たちはそのことを知らないので、とにかく自分には罪がないんだと思いたがるのです。これは不幸なことです。でも村上さんは幸いです。恐らく時間がかかるかもしれないけれども、村上さんのかつての戦友たちも不幸ではありません。何故なら、神様は常に赦しを求める者、救いを求める者に寛大だからです。」
「有り難いことです。」老人は答えた。「でもたとえ神様が赦してくださったとしても、私が殺した人たちは私を赦してくれるでしょうか?」
「それは分かりません。けれども、それがあなたにできるすべてのことであり、それ以上はないのです。もしあなたが殺した人があなたを赦すならば、その人も村上さんも共に愛を知ることになるでしょう。また、そうでなくても、あなたの行為はきっと後の世代に受け継がれていくでしょう。
 ところで、村上さんは永遠の命について考えたことがありますか?」
「永遠の命ですか?」
「ええ、人間のこの世での命は限られています。でもクリスチャンは人の命はそれで尽きるものではないと考えています。」
先生はマッチを取り出してそれを擦った。それは勢いよく火をつけたが、すぐに燃え尽きて灰皿の上で黒い燃えかすとなった。
「この世での人の命はこのマッチの火のようなものです。人間は生きようとする意志によって自らに火をともしますが、それだけではただの灰になってしまう。しかし、その火でランプに火をともしたらどうでしょう? 人々はその下で生活していくことができます。マッチの火はランプの明りとなり、その下に生きる人々を通じて限りなく広がっていくのです。ただ自分のためだけに生きる人生には限りがあります。恐らくさっきの地獄で消えていく人々はこのような人たちでしょう。地獄とはただただ自らの欲望を燃やす所だからです。だが、罪を知り、人を愛することのできる人はそうではありません。イエズス様は『灯火をともして枡の下に置く者はいない。燭台の上に置く。』といっておられますが、人の命はより広く世界を照らすことによって生きる、そう思えるのです。自らの罪を知り人の罪を赦せばそこに愛が生まれます。その愛は世界を照らす灯火であり、自らを越えて行く永遠の命なのです。ですから、村上さんはもうこれ以上悔いることはない、迷うこともない、そう私は思います。」
「クリスチャンじゃなくてもですか?」
「ええ。」先生は答えた。「確かに私はカトリックの神父ですからこんなことを本当は言ってはいけないのでしょうけれど・・。」
先生の言葉はそこで止まった。
 部屋にはもとの静けさが戻り、遠くから波の音が聞こえてきた。
「どうも有り難うございました。」老人は立ち上がり先生に礼を言うと、ゆっくりとその部屋を出て行った。先生はうなずくと、再び自分の机の方に椅子の向きを戻した。
 
 

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