東方黒豹

- アジアン・ブラック・パンサー -

第10回

「やっ!」
 短いかけ声と共に、思い切って飛ぶ。際どいタイミングだったが何とか車の端を掴むことに成功した。
 しかし、相手は全力疾走している暴走車である。すぐに振り飛ばされそうになった。その光景を見下ろしたレナは思わず顔を覆い、フランクは天を仰いだほどだ。パオは両手両足を使い、必死に屋根にしがみついた。もちろん車の方も、パオが屋根に取りついたことは気づいていて、わざと車体を揺らしてくる。右へ左へ、車は意地悪く蛇行し、そのたびパオの半身は引き剥がされそうになった。
 パオの底力は、ここからである。
 乱暴なそのゲームの中で、パオはじりじりと腕に力を蓄えていった。屋根のわずかなでっぱりを掴む指は、頑丈な針金のように曲げられ、身体を支える。
 その、腕を支点にして、パオは斜めに身体をはね上げた。
 逆立ちの要領であるが、場所と情況がただごとではない。恐るべきアクロバット技である。しかも途中でひねりを入れ、車の前部に正面から蹴りをたたき込む形になる。
 フロントガラスが砕け散り、運転手はガラスごと蹴りを食らって後方へすっ飛んだ。
 車内に身体を乗り入れたパオは、そのまま助手席の男に膝蹴りを食らわせた。なおも抵抗しようとするそいつの首を狙って、手刀をたたき込む。ぎゅう、とみっともない声を上げてそいつは倒れた。
「野郎!」
 後部座席の男が猟銃を向けてきた。狭い車内で発射すれば、自分も跳弾を食らうことに思い至らない馬鹿だ。パオは咄嗟に、避けるかわりにぐいと男へ顔を近づけた。ひるむ隙をついて、銃身をつかんでひっこぬこうとする。引っ張り合いになった。
 運転手を失った車は、見事な蛇行を描いた挙げ句、横町の雑貨屋の店頭へ突っ込んだ。
 物凄い衝撃に、足場の悪いパオの方が、後部座席へ頭から突っ込んだ。その上から、崩れてきた缶詰やら漢方薬の箱やらが、ばらばらと降り注いだ。得たり、とばかり男は猟銃を逆手に持った。殴りつけようとしたところへ、伏兵現れる。
「いーかげんにしろよ、三下ァ!」
 胴間声と共に、横から容赦のない蹴りが飛んできた。避けることもできず、男は横っ面に蹴りを食らった。窓に激突して、割れたガラスごと車外へすっ飛んだ。頭が割れなかっただけ、幸運というべきか。
 パオの窮地を救ったのはもちろん、アイアン・李である。
 彼はたった今、目を覚ましたばかりといった風情で、頭痛に眉をしかめながら、ようやく座席から身を起こしたところだ。哀れなことに小手高手に縄でくくし上げられられ、イモ虫もかくやという状態である。
「おいパオ、しっかりしろ!」
 肩と顎と歯で、日用雑貨の山をかきわけて、何とかパオを救い出した。掘り出されたパオは、ホッとして笑顔をみせた。
「アイアンさん、ありがとうございます」
「礼を言われるのもみっともねえ」
 アイアンは口をへの字に曲げて、心から嫌そうな顔をした。
「助けてもらったのは、こっちの方だ」
 そして、周囲を見渡して、顔色を変えた。
「おい、マイケルの奴ぁどうした?!」
「どうしたって……一緒じゃなかったんですか?」
「捕まるまでは、確かに一緒にいたんだ。二人で病人の家まで行って、色々と話を聞いて、マイケルは何か家の周りも調査してたみたいだ。奴はすごく興奮してて、病気の手掛かりを掴んだ、と言ってた。俺は部屋で待ってたんだ。そしたら、家の外でマイケルの悲鳴が聞こえて------」
 アイアンはしかめっ面で後頭部をさすった。
「飛び出したところを、物陰からガツン、よ。倒れかけたとこに、何人かがのしかかってきて、麻酔をかがせやがった。最後に見たのは、俺と同じように地面に長くなってるマイケルの姿さ。んで、気がついたらお前がフロントガラスを破って飛び込んできたってわけだ」
「では、犯人は二手にわかれて僕たちを攪乱したんですね」
 パオは歯噛みした。犯人発見の第一報に浮かれ過ぎたのだ。もう少し腰を落ち着けて警戒しておけば、一網打尽にににできたものを。
「ま、犯人の正体については、こいつらに聞くさ」
 アイアン・李はニヤリと笑って、顎で気絶した男たちを差した。パオが縄を解いてやるそばから、拳をバキバキ鳴らして、尋問の準備は万端である。
 その頃になって、ようやくパトカーが追いついてきた。気絶した三人の誘拐犯人に手錠をかけ、正気を取り戻させるのは彼らの仕事で、尋問はアイアン・李に任された。
 しかし、はかばかしい成果は得られなかった。
「俺たちは雇われただけなんですよ!」
 香港マフィアのチンピラたちは、声を揃えて泣き声を上げた。
「でかいヤマもなくてブラブラしてたら、いきなり家に電話がありましてね。前金で一万ドルもくれた上、仲間を集めて車で荷物を運んでくれたら、十倍は払うと言うんです!」
「このヤロ」
 荷物扱いされたアイアン・李は、怒りに任せてチンピラたちの頭をポカポカ殴った。
「金はどうやって受け渡したっていうんだ! こいつら、依頼人の顔をみてないとは言わさねえぞ!」
「見てないんです、本当です」
 べそべそと涙をこぼしながら、チンピラたちは訴えた。金は郵便で送られてきたし、封筒は指示によって燃やしてしまったという。ヤバい仕事とは薄々気づいていても、別に頼まれただけだからいいや、と軽い気持ちで引き受けたという。
「もう一人の人質はどこへやったんだ?」
「あ、あの大柄な男は、クルーザーに乗ってきた男たちが、途中で別の小さな車に乗せ換えて運んでいってしまいました」
 ちっ、とアイアンは吐き捨て、拳を打ちつけた。
 犯人のかけた保険は、見事に功を奏したのである。人質を二人取っておいて、分散させる。どちらかが取り返されても、もう一方が手の内にあれば、人質の目的は達成される。
 恐らく、とアイアンは腹立たしく考える。人質としては、彼自身よりもマイケルの方が与しやすしと考えた犯人は、最初からアイアンを囮にするつもりだったのだろう。
 いや、もしかしたら”青き帝王”などと抜かすこの犯人は、マイケルが病気の治療法に気づいたことを聞いて、すわ一大事と彼を狙ったのかもしれない。
 何にせよ、マイケルはさらわれた。
 その命の保証すら、確実ではない。
 それなのに、アイアン救出に全力を尽くした香港警察は、見事に裏をかかれ、全ての手掛かりを失ってしまったわけだ。
「どうする、これから」
 途方に暮れて、アイアンはパオに目を移した。
 パオはにっこり笑った。
「僕に、策があります」
「何ぃ?!」
「その前に、ランタオ島の署長さんに連絡を取らなくっちゃ」
 困った顔になって、パオはきょろきょろと辺りを見回した。雑貨屋は気の毒なことに半壊もいいところという状態であって、電話もどこにあるか定かではない。主人のじいさんは、おんおん泣きながら香港警察への呪いの言葉を吐いていた。
 都合のいいことに、そこへフランクとレナが駆けつけてきた。ヘリポートのあるビルまで移動して、それから現場まで引き返してきたので、時間がかかったのだという。
「でも、安心して! 私がこの男をちゃんと見張ってたから、部下とは連絡が取れなかったはずよ!」
「いい加減にしろよ、この女!」
 またしても掴み合いのケンカが始まりそうだったのだが、今度はアイアン・李の一喝でけりがついた。さすが英雄と称されるだけあって、アイアンは他の反論を許さない。頭ごなしにやっつけられて二人とも叱られた犬のようにしょんぼりと黙り込んでしまった。
 クスクス笑いながら、パオはレナに手を突きだした。
「レナ、携帯電話を貸して」
 最新式のその電話の使い方がパオにはよくわからなかったが、そこはレナがレクチャーしてくれた。アンテナを伸ばして、通話口を開いて、ボタンを押して。
 パオは隅っこへ行って、誰にも聞こえないようにして電話口に何やら確認した。アイアン・李も接近を禁じられ、おあずけする犬の如くそこらへ座り込む。
 やがて、意気揚々とパオが戻ってきた。
「ありがと」
 レナに携帯電話を返した。
「ねえ、何を話してたの? どうなったのよ!」
 例によってレナは、うるさくパオに質問する。フランクとアイアンも、もう待ってなんかいられない。一斉にパオを囲んで、話しかけようとした。その場にそぐわぬ大騒ぎになって、事後処理に走り回る警官たちに睨まれた。
 パオは笑って、一同を押し戻した。
「さっき署長に頼んだ調べ物の、結果を聞いただけですよ」
「それで?」
「おかげで、僕には犯人が大体わかりました」
「ええっ?!」
 と、これは三人の声が揃った。
「誰だ、どんな奴なんだ?!」
「フランクよね? フランクなんでしょう?!」
「貴様、しつこいぞ! お前こそ敵のスパイだろうが!」
「まあまあ」
 パオは悪戯っぽい顔をするだけだ。そして、真面目な表情になって、アイアンに向かって言った。
「お願いがあります。今から僕の指示することを、三日以内に確実に実行して下さい。そうすれば必ず犯人を捕まえられます」
「おう、言ってみろ。何でもやってやる」
 アイアンは大きく出て、腕組みをした。彼もまた、獰猛な顔つきになっている。獲物を追いかける猟犬の顔だ。
 だが、パオの言葉を聞いて、さしものアイアン・李も目を丸くした。
「まず、”青き帝王”のことをマスコミに知らせて下さい」
「何だと?! そんなことしたらパニックが起こって……」
 アイアンは咄嗟に反対しようとした。今まで伏せておいたものを今、報道する意義を、彼は何も見いだせなかった。特に現在は人質を取られている。下手な動きは避けた方がいい。
「でも、犯人は自分のことを知らせるな、なんて言ってるわけじゃないでしょう? それどころか、彼の自己顕示欲はだんだん大きくなってきています。彼自身がマスコミへ自分を誇大に売り込むのを待つよりは、こちらで正確な情報を公開した方がいい。あの奇病のこともです。発生から現在の状況までを細かく、できるだけ大々的に報道するんです。そして」
 パオは笑った。
「治療法は、すでに発見されているから大丈夫だ、と全香港市民に呼びかけて下さい」
 開きかけた口のなかに豆をいっぱいに詰め込んでも、驚愕したアイアン・李は気づかなかっただろう。それほど、彼はパオの言葉に仰天していた。
 フランクとレナも同様だ。顎が外れんばかりに口を開け、呆然とパオを見つめるのみである。
「ち……治療法を、見つけたの?!」
 レナがパオの胸に取りすがった。彼女としては、おかしいくらいに興奮している。ガクガクと足を震わせ、信じられないというように首を振っていた。
 それを見て、得たりとばかりフランクが叫ぶ。
「何をうろたえてやがるんだよ、この女! やっぱりお前が犯人なんだろう? せっかく脅しに使った病気も、治療法が発見されたんじゃ意味ねえもんな!」
「そ……そうじゃないわ!」
「なら、何でそんなに震えてるんだよ!?」
 パオは黙って、二人の争いを聞いていた。
 静かにレナの肩に手をかけて引き剥がし、アイアン・李の方をしっかり見据えて、言い募る。
「今のこと、三日以内に確実にしてください」
「し、しかしパオ。そんな途方もない話、誰が信じる? 病気の方はなるほど、資料もあれば実際の患者もいるから説得力があるだろう。けど、治療法ってのは、どう信じさせればいいんだい。それともお前、何か視聴者に見せられる特効薬でも見つけたのか?」
 パオの治療法発見の話など、ハナから信じていない様子のアイアンだ。パオも、首を振って答えた。
「いえ。何もありません」
「ほらみろ。そんなニュース、誰が信じるかよ」
「信じますよ」
 パオは満面の笑顔をみせた。
「かの香港の英雄、アイアン・李自身が語りかけるんならね」
 アイアン・李の目は、精神的に五pほど飛び出した。
「な……なんだとぉ!?」
 マスコミ嫌いで知られた伝説の英雄、アイアン・李。彼に対する一般市民の興味は尽きない。その本物が登場し語りかけるなら、群衆心理としても、絶対の信頼を抱くことは間違いない。
 間違いないと思うからこそ、アイアンは泣きそうな顔になる。彼にとってマスコミ嫌いというのは、注射嫌いやホウレン草嫌いと同じで、理屈ではないのだ。
 しかし、やらねばならぬこともわかっていたから、アイアン・李は腹をくくった。前髪を振り立てて吠える。
「仕方ねえ、必ずやってやるぜ。今回の事件をでっかく報道して、しかも治療法は発見されたから”青の帝王”なんて奴のことは心配するなと言えばいいんだろ!? そしたらお前は犯人を捕まえられるんだな? まかせとけよ。ただし」
 ビッ、とパオの鼻先に指をつきつけて。
「犯人逮捕のときは、俺も連れていけよ」
 年を押すところが、アイアン・李らしい。パオは苦笑して、頷く代わりに肩をすくめてみせた。
「お、俺も連れてって下さい! 必ずお役にたって、疑いを晴らしてみせます!」
「そんなこと言って、隙があったらパオを殺そうとしているんでしょう? だまされませんからね!」
 またぞろ、ケンカが始まった。
 パオは仕方なく仲裁に入りながらも、心はすでに決戦の場へと飛んでいた。
 あと少し。もう少しで、全香港を恐怖に陥れようとする悪魔の正体を、暴いてみせる。
 そしたら帰る前にせめて、あの綺麗な夜景をもういっぺん見てみたいなあ、と思うほどには、パオは子供であった。


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