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アイアン・李はパオの希望通りに動いてくれた。この手の男は、いったん覚悟を決めたらいさぎよい。連日、テレビに新聞に雑誌とあらゆるメディアを駆けめぐり、インタビューに答え、今回の事件について訴えた。
ちょうど、アバディーンからセントラルへの大追撃戦がたいへんな話題になっていた時期である。その陰に香港支配をたくらむ時代錯誤な悪党がいる、というセンセーショナルな話題は、物見高い香港市民の間を駆け抜けた。
何といっても、アイアン・李が自信をもって、治療法はすでに発見されたと語っているのだ。人々は呑気に、騒ぎに便乗できる。
マイケルの行方は、必死の捜索にも係わらず、全くつかめなかった。アイアンは自分の失態のお陰だと気が気ではなかったが、パオはのんびりとしたものだ。
「大丈夫。少なくとも、殺されることはありません」
パオは断言した。
「何でそんなことがわかるんだよ。そもそも、自己顕示欲と支配欲の塊みたいな犯人なんだ。あっさりと治療法が発見されました、などと言われて、カッとならないとも限らないだろ」
「僕は、嘘は言いません。大丈夫だといったら、大丈夫なんです」
危ぶむアイアンに、自信満々でパオは答える。
「犯人はマイケルを殺せない理由があるんです。東方黒豹の名にかけて保証しますよ」
そこまで言われたら、アイアン・李も黙り込むしかなかった。
フランクとレナはあれから、厳重な監視下に置かれていた。このうちのどちらかが”青き帝王”である可能性は残っているのだ。フランクはめそめそ泣き暮らし、レナは弁護士に訴えると息巻いていたが、アイアンは二人の監禁を解きはしなかった。
パオはずっと、何かを待っていた。
アイアンがやいのやいのと責め立てても、特に行動は起こさなかった。ときたま、ぼんやりと街に出て、物見遊山して戻ってくる程度だ。
その間に何か企んでいるのではないかと同行したアイアンは、一日観光につきあわされる羽目になった。しかもパオはよほど金を持っていないらしく、ただ見て回れる街巡りである。何がおもしろいんだとアイアンは思うが、彼は林立するビルを見上げたり、看板を見物するだけで、十分に楽しそうだ。しまいに、どこへ行ってもあれが英雄のアイアン・李だと囁かれるのに閉口して、彼は署へ逃げ帰ってしまった。
「香港って本当に綺麗だなぁ」
足元はゴミだらけで、街角では屋台のおっさんがケンカしてたって、やっぱり綺麗。それは街全体が、活き活きと輝いているから。
こんな綺麗な街なら、欲しくなる人が現れたって、仕方ないかもなぁ、とパオは思ったりする。
イギリスだって中国だって、この街が欲しくてこの間まで言い争いを繰り広げていた。軍配は中国に上がったけれど、今度はイギリスは、投票による民主政治を香港に定着させる、という嫌がらせで中国を怒らせた。綺麗なものを取り合うときは、人間というのは子供になってしまうものらしい。
憎むべき資本主義の先兵だ、などと中国政府の役人はパオに言った。街は醜く、人の心はすさんでいる。誰もが己のことしか考えず、わがまま気儘で生きている恐るべき街だ。アジアの英雄たる誇りにかけても、あんな街に心を奪われてはならぬと。
「でも、いい人もいるし」
パオはうーん、と伸びをした。
「やっぱり、守らなきゃ」
地味な黒づくめの衣装に身を包んだとっぽい青年に、人並みは何の関心も持たず流れていくのであった。
署に戻ったパオに、待っていた知らせが届いた。中国政府に調査を依頼しておいたものだ。彼らはここで香港に恩を売らないでどうする、とばかり、全力で取り組んでくれた。それにしても、伝書鳩で情報を送るというのは、さすがのパオも呆れてしまう。政府の申し立てによると、香港の電信電話網は常に盗聴されているとか。不信も、ここまで来るとたいしたものだ。
「よし。これで全てわかった」
通信筒から出てきたメモを読んで、パオは自説に確信を得た。そして、おもむろに行動に移ることにした。
約束通りアイアンとフランク、それにレナを連れて。
4
ビクトリア・ピークといえば、香港で一番有名な観光地といっても過言ではあるまい。
本名は太平山。香港で最も高い山の名前である。
この山の上からは、有名な香港百万ドルの夜景を一望できる。中腹にある展望台には日夜、観光客があふれ返り、つい先年、彼らをあてこんだ一大ショッピング・センターまでが建造された。地上と展望台をつなぐピーク・トラムは、今夜も世界各国の観光客を満載して、重たそうに山腹をはい上がっていた。
パオたちはしかし、観光客とはまったく反対側の山道を上がっていた。
裏側から見るビクトリア・ピークは、観光客の知るそれとは全く別のものだ。
うすぼんやりと霞のかかった夜空。星は、香港の夜景の華やかさにいたたまれぬ様子で、申し訳なさそうにかすかな光を投げかけている。その空を背景にして、黒々とそびえたつ山のところどころには、豪勢な屋敷が居を構える。
金持ちほど高いところに住む、というのは、香港ではよく知られた真理である。理由は簡単。ビクトリア・ピークに住めば、毎晩、百万ドルの夜景を見下ろしながら暮らすことができるのだ。こんな豪奢な暮らしもあるまい。
高ければ高いほど見晴らしは良くなる、というわけで、地価も天井知らずに高くなる。よほどの金持ちでなければ、ピークに住むことはかなわない。
その、頂上付近。
阿片戦争の時代から続いた旧家が構えていた別荘が、十年前から売りに出されていた。しかし、あまりの値段の高さに誰も手が出せず、放置されてから久しい。当初は街の話題をさらったものだが、今は思い出す者も少ないのが現状である。生き馬の目を抜くめまぐるしい都市、香港では、一年昔のことは百年前と同じ。ましてや十年前だなんて、というわけだ。
アイアン・李も、パオに言われて初めて、そういやそんな屋敷があったと思い出したようなものだ。
「それで、その屋敷がどうしたって?」
パオはニコニコ笑いながら言った。
「”青き帝王”の住処です」
そんなこと、いきなり言われて信じられるわけがない。
けれど、パオが自信たっぷりなので、アイアンは黙ってついていくしかなかった。フランクとレナも同様である。
一行は途中で車を下り、徒歩でその屋敷へと向かった。
レナは行き先を聞いてから、奇妙に黙り込んでいた。いつものでしゃばりが嘘のように、強張った顔をしている。
「そりゃ当然だろ。今こそ、化けの皮が剥がれるんだからな」
フランクの言葉に、レナは柳眉を逆立てた。
「しつこいわね! 私は犯人なんかじゃないわ!」
「じゃあ、電話の相手は誰だったのか言えよ!」
決まりきった言い争いが始まろうとしたときだ。
「電話は、袁財団の経営する防疫研究所へだ」
レナはハッと顔を上げて、声の主を振り返った。目を大きく見張り真っ青になっている。
パオは構わず、話を続けた。
「新聞記者とは真っ赤な偽物。彼女は袁財団の会長の孫娘で、今回の事件を探りに来た。今から潜入しようとしている屋敷も、袁財団の持ち物だった。それを手放さなければならなくなった事件が、実は今回の事件につながっている」
一同は、言葉もなくパオを見つめた。中でも特に、レナの動揺ぶりは特筆に値した。
「どうして……知ってるの?」
「もっと知ってるよ」
パオは笑顔を浮かべて、話し続けた。
「実は、今回の人獣化……あれは、今回だしぬけに発生した病気ではなかった。もちろん、自然の病気ではない。袁財団が第二次世界大戦中に、日本軍のため開発した細菌兵器。正体は、それだ」
パオはこのことを、大胆な推理と調査の依頼によって突き止めたのだった。レナが電話した先は、厳重警戒体制化で使われた携帯電話だっただけに、警察の電場探知によって発見することができた。そこからレナの身元を探るのは簡単だった。中国政府は、申し分ない仕事をしてくれた。それと、治療法が発見されたと聞いたレナの興奮ぶりから、パオは推理を組み立てたのだ。
「袁財団は戦後、捨てるに捨てられず隠しておいた細菌兵器を、過失により紛失してしまった。隠しておいたのは、あの別荘だ。もし細菌が漏れていたら、と恐ろしくなった袁財団では、別荘を手放して、本拠地をカナダへ移してしまった。だが、香港で病気が流行り始めたら、今度こそ責任を追及される。だから一族の中で、君が白羽の矢を立てられて、香港で情報の網を張っていた。そして、病気が発生したことを知って、それが自分たちのせいであることが知られないように、奔走していた。そうだろう?」
「……おじいさまは、それほどの悪人じゃないわ」
覚悟を決めた様子で、ぽつりとレナが言った。
「おじいさまは、死ぬまであの恐ろしい兵器のことを心配していたわ。もし香港に広がれば、我々の責任だ。だから、なんとしても我々の手で治療法を見つけ、災いを未然に防がねばならぬ。いつもそう言っていた」
普段の傲慢さは陰をひそめ、今のレナは、必死で涙をこらえているようだった。濡れた目で、ひたむきにパオを見つめた。
「おじいさまの言うことは、一族の人たちはあまり気にしていなかった。けれど私は、おじいさまにはいつも優しくしてもらった。だから彼のため、香港を守ろうと思った。本当よ」
「信じるよ」
パオは答えた。レナはほう、と息を吐いて首を振った。
「違う、あなたは信じてない」
「信じてるよ。だって君は治療法が見つかったと聞いて、あんなに嬉しそうな顔をしたじゃないか。嬉しすぎると人間、哀しい顔になるものだから、フランクは誤解したみたいだけどね」
それでも自分の方を見ようとしないレナの、肩をつかんでパオは微笑みかけた。レナは最初、かたくなに地面を見ていたが、やがて上目遣いにパオを見上げた。そして、彼が屈託なく笑っているのに気づき、ぽろぽろと涙をこぼした。
「あたし……あたしは……」
「もういいんだよ。この事件は、僕がきっとかたをつけるから。女の子一人で、よくここまでがんばったね。ここで待っておいで。悪者をやっつけて、すぐ戻ってくるから」
これぞ、スーパーヒーローってもの。
「---------パオ!」
抱きついて、胸に顔を埋めて泣いてしまった。
たった一人で、祖父の遺志を継いで戦い続けていた彼女に、ついに理解者が現れたのだ。しかも笑顔で自分を受け止めてくれる男。自分を助けるだけの力を持っている男が。
「おい、もういいだろう」
愁嘆場の苦手なアイアンが、鼻の頭をかきながら声をかけた。
「お前の言う通り、あの別荘に行けば全ての事件が解決するっていうんなら、早いとこ行こうぜ」
「そうですよ」
フランクが口を揃える。
「俺は何としても、この手で犯人を捕まえて、黒豹さまの役に立つつもりなんですから!」
言いながらも、そのへっぴり腰は情けない。アイアンは天を仰いで呻き、何でこんな奴を連れていくんだろうとパオを恨んだ。しかし、すぐに考え直す。もしかしたらこの作戦自体が、フランクの正体を暴くための偽装かもしれない。
アイアンは、フランクがそんな大物だとは夢にも思っていなかったが、スパイである可能性は十分に考慮していた。油断なく後ろから、銃を構えて進む。先頭がパオである。レナは言われた通りその場に残って、じっと一行を見送っていた。
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