東方黒豹

- アジアン・ブラック・パンサー -

第9回

 事件は、自転車で受け持ち区域を回っていたパトロールの警察官によってもたらされた。これがランタオ島でなく、白バイで見回りをする香港市内であれば、これほど早くは見つからなかったかもしれない。
 そのとき、担当の警察官は周囲に気を配りつつ、のろのろと自転車を運転していた。自他共に認める猫好きをもってなる彼は、最近この地区に出没する、可愛い白猫を餌付けしようろ懸命だったのである。
「シロ。シロや」
 片手に魚の干物をぶらさげ、警官は裏道へ入った。そして、とんでもないものに気がついたのである。
 曰く、血の匂い。
 もはやシロどころの騒ぎではない。ただちに干物を投げ捨てた警官は、今度は拳銃を片手に持って、用心深く周囲を探った。彼は知らなかったが、そこは署長の地図に記された桃色地区であり、特別警備が義務づけられている一画であった。
 やがて彼は、一見の田舎風の家屋から、血の匂いが流れ出てきていることを発見した。勇み立った彼は、応援を呼ぶことも忘れ、無謀にも一人でその家屋へ踏み込んだのである。
 踏み込んで、仰天した。
 いきなり、玄関口に死体が転がっていたのである。
 死体は刃物で滅多刺しにされ、まだ血を流していた。触ると、まだぬくもりが残っている。じんわり溢れた血溜まりは、玄関に小さな池を作りつつあった。
 警官はその後、果敢にも中へ入っていった。そして、同じように殺された何体もの惨殺死体を発見した。
 人間、恐ろしいものをたくさん見ると、かえって感覚が麻痺してしまうものである。
 彼は自分でも感激するほど冷静に、全ての死体を検分した。同一犯人による犯行に間違いないと、彼が警察学校でたたき込まれた知識は告げていた。
 最後に彼は、奥の間にたどり着いた。彼も、ここの主人が突然の病に臥せっていることは聞いていた。その主人は、やはり切り刻まれて死んでいた。だが、その酷さよりも、主人の身体に浮かんだ青い斑点の奇妙さに、ウッと警官は息を詰まらせた。
 壁にナイフで留められた紙の存在に気づいたのは、彼の報告によって駆けつけた鑑識たちである。
 ノートの切れ端に血で記されたそれを読んで、事情を知らない警官たちは首をひねり、署長は報告を受けておののいた。
「貴方宛です」
 副署長が取り出したそれを読んで、パオも眉をしかめた。
「----- アイアン・李とマイケル・周を無事に返してほしくば、これ以上の手出しをやめよ、ですか」
 宛て名は彼らの言うとおり、東方黒豹。差出人の名前は、人を馬鹿にしたことに”青き帝王”とあった。犯人の自己顕示欲は、次第に膨らんできている。ただの犯人としてではなく、個人名を名乗る辺りが、その証拠だ。
 あれからずっと署長と副署長が外出しておらず、外部へ連絡も取っていないことを、パオは確認した。
「ほうら、やっぱり犯人はフランクよ!」
 話を聞いたレナは、鬼の首を取ったような顔になった。
「署長たちは持ち場を離れていないし、私たちは刑務所の中にいたんだから、自由に動けたのはフランクだけじゃない」
「俺はっ、あそこでじっと黒豹さまを待ってたんだ!」
「はん、どうだかわかったもんじゃないわ」
「何をうっ! じゃあお前は、電話の宛て先を言えよ!」
 必殺技を繰り出されて、レナが返す言葉に詰まる。二人はケンカっ早いニワトリのように、全身の毛を逆立ててにらみ合った。
 パオはそんなものに構っていられない。
「署長、それで、手はうっていただけたんでしょうね」
「手……といわれても」
 頼り無い反応に、パオは思わず腰がくだけそうになる。まったく誰も彼も役に立たない。
「大の男二人を誘拐するには、定期船を使うわけにはいかないでしょう? 島から離れた船で、登録されていないものについて調べて香港島と九龍半島の方へ手配して下さい! まだ、事が起こってから一時間半というところです。急げば間に合います!」
 なるほど、と手を打って、副署長が無線室へすっ飛んでいった。署長は何をしていいかわからず、おろおろするばかりだ。その襟首をパオはひょいと掴んで、耳元へ内緒話。
 耳を傾けるうち、署長の目はみるみるうちに丸くなった。
「……以上です。早急に、調べてください」
「し、しかし何故そんなことを?」
「もちろん、事件の解明に役立つからです」
 きっぱりしたパオの口調に、署長もそれ以上、問い返すことの愚を悟った。引き受けた、と言って彼も急いでオフィスを出ていく。部屋にはパオと、好奇心ではちきれそうになっているレナ、それからパオの背中を切なく見上げるフランクの、三人が残された。
 一番、落ち込んでいるのは、フランクである。犯人扱いはともかく、パオから疑われているという事実に叩きのめされた、という恰好で、肩を落として座っていた。
 その腕を、パオはぐいと引っ掴んで無理やり立たせた。
「ぼおっとしている場合じゃない。準備しろ!」
 フランクの目は点になった。
「な、何の準備?」
「決まってるじゃないか! 誘拐犯人を追いかけるんだ」
 パオの言葉に呼応するかのように、副署長が部屋に転がり込んできて報告した。
「たった今、香港島の南端、アバディーンの水上警察総部から連絡が入りました! 無登録の不審なクルーザーが着岸し、車に大きな荷物を二つ乗せて逃亡したそうです」
「それだ!」
 パオは今にも飛び出そうとした。その袖を捉えて、にっこり笑った副署長が屋上を指さした。
「今から海路で追いかけても無駄ですよ。屋上のヘリポートに、警察専用のヘリコプターを準備しておきました。お使いになりますか?」
 聞くまでもない。
 パオは返事もせず、駆けだした。とるものもとりあえず、フランクが続く。慌てたのはレナだ。
「あ……あたしは!?」
「好きにしろ!」
「そうこなくっちゃ!」
 レナはパチンと指を鳴らし、それから全速力で二人の後について走りだした。風のようなパオに追いつけるべくもないが、それは同行を命じられたフランクも同様。追いつ追われつの醜い戦いを繰り広げながら階段を上がると、パオがちょうど、ヘリに乗り込んだところだった。
「待って、待ってよ!」
 操縦者を入れて、定員四人で機内はいっぱい。仕方なく、署長と副署長は屋上で彼らに手を振るしかない。
 手を振り返しながら、パオは叫んだ。
「お願いしたことは、後から電話で聞きますから!」
 頷いた署長の顔を最後に、ヘリは勢いよく空へ舞い上がった。周囲の木々が逆立ち、木の葉が飛び散った。
 ヘリはいったん斜めにかしいで、方向を転換した。しすて全速力で香港島を目指す。小気味よいスピードで、眼下の島々が通り過ぎていった。香港は無数の島々で構成されている、ということが、こんな景色を見るとしみじみ感じられる。海水浴に来たのか、浜辺でたむろしていた人々がヘリに向かって呑気に手を振っていた。
 みるみるうちに香港島が近づいてきた。
 疑いもなき絶大な繁栄を、香港の街はその摩天楼で天下に示している。遙か上空から見る高層ビル群は、おもちゃのブロックを思わせた。
 夕暮れを前に、幾つかのビルはすでに灯がともっている。有名なアバディーンの水上レストランはネオンでキラキラと輝き、どこか、化粧して惚れた男を待つ鉄火女といった感じだ。
 やがて中国のものとなってしまう土壇場にあって、香港の街はいっそう綺麗にまたたいている。
 パオはしばし、言葉もなくその美しい街に見とれた。
 それから、急いで我に返り、操縦席の警官に身を乗り出した。爆音に負けないように話しかけるには、耳元で大声を出さなければならない。
「犯人の車は、補足しているんでしょうか?」
「はい! パトカーが追いかけています。情報はこちらのレーダーにも、ダイレクトに伝わるようになっています」
「では、上から追いかけてください」
「YES, SIR !」
 ヘリはそのまま、街中へと低空飛行に入った。
 はっきり言って、航空法なんかどこ吹く風の、大暴走である。ビル風にあおられながらも、強引に道路の上を飛び抜ける。通行人たちは命からがら横道へ飛び込み、難を逃れた。呆気に取られた運転手のせいで、車が何台か追突事故を起こした。
 フランクとレナは後部座席で、生きた心地もない。二人でシートにしがみつき、ガタガタ震えるしか術がなかった。
 一方、操縦者は腕まくりして張り切っている。
「いやぁ、光栄です! 東方黒豹のお役に立てるなんて!」
 機首に迫った看板を、間一髪で乗り越えて、さらにスピードを上げた。
「去年の広東省の水害で、濁流に呑み込まれたところを助けていただいたばあさんは、実は私の母なんですよ! まさか母の御恩返しが自分にできる日がこようとは! ご覧になっていて下さい。香港皇家警察勤続二十年、この陳沙展(巡査部長)が一命をなげうって悪人ばらに追いついてみせましょう!」
「ちょ、ちょっと。あんたの一命には私たちの命もかかってるんだけど……」
 レナの控えめな講義などは陳沙展に届かず、彼は腕まくりなんかしてさらにヘリを疾走させた。パオは何とか身につけた体術のおかげで席に着いていられたが、後ろの二人はまさに鞠のようだ。機体に頭をぶつけ、お互い同士ぶつかって、こぶだらけになってしまった。
 しかしその甲斐あって、道の果てにようやくパトカーの群が見えてきた。
「あれだ!」
 その向こうに、あくまで逃げの体勢を崩さない大型の黒い車がいる。上空から見ても、ガラスが偏光して中の様子が見えないことがわかった。
 追いすがるパトカーから何発かの銃撃が襲ったが、防弾仕様のその車はびくともしない。警察をあざ笑うように、さらにスピードを上げた。
「追いつけますか?」
「任せてくださいよ、東方黒豹さま!」
 陳沙展は陽気に叫んだ。そこへバイパスが迫ったので、いったん機体を起こす。
 その間に、車はトンネルへ入った。
 数年前に完成したばかりの、アバディーンと香港市内をつなぐ山中トンネルである。それまで島端を迂回しなければならなかった両市は、このトンネルのお陰で格段に交通の便がよくなった。観光客が一度は訪れたい香港の顔、アバディーン。総督府から政庁までが集中する行政都市、セントラル。そして犯人の車は、一路セントラルを目指している。
「しめた!」
 陳沙展は目を輝かせた。
「トンネル内は制限速度の二車線通行です。玉突き事故でも起これば袋のネズミになる危険は犯人にもわかっているはずですから、そうそう無謀な運転はできませんよ」
「追いつきどころってわけですね!」
「その通り!」
 威勢良く答えて、陳沙展はヘリを無謀に走らせ始めた。山をスレスレで飛び、木にひっかかりそうになりながらも、スピードは落とさない。日はすでに暮れかかり、前もよく見えない中での飛行は、まさに無謀に尽きた。
「黒豹さま! 俺っ、あなたと死ねるなら本望ですっ!」
 フランクは情けない悲鳴をあげるし。
「ちょっとやめてよ! 私はこんなに美しくて若いのに、道連れにしないでちょうだい!」
 レナは猛然と講義しつつ、フランクの尻を蹴飛ばす。
 てんやわんやの内部とは裏腹に、ヘリは引き絞った矢が放たれたような鋭さで、トンネルの出口へ向かっていた。
 宝石のような輝きと共に、山の向こうからセントラルの街が現れる。広がる夜景は、百万ドルの値では安すぎるほどの絢爛豪華さである。
 と、出口から黒塗りの大型車が吐き出された。
「あれだ! 接近してください」
「お任せあれっ」
 ヘリはぴたり、暴走する車の上空へつけた。そんなヘリをどう思っているのやら、不気味に沈黙したまま走り続ける。対向車が、そのあまりのスピードに避け損ね、何台もスピンした。このまま車が殺人的な香港市内の渋滞の中へ突っ込めば、さらなる被害が予測された。
 パオは心を決めた。
「縄梯子を下ろします! 機体を安定させて、できるだけ車の上の位置を保ってください」
「パ、パオ!?」
「黒豹さまっ!」
 レナとフランクが同時に素っ頓狂な声を上げたが、パオはそんなものに構っていられない。風圧に逆らって無理やり扉を開ける。縄梯子を宙へ放り出した。
 ヘリは車と速度を合わせて、今しもセントラルの市内へ突っ込んだところだ。
 ビルの窓から突き出された洗濯物が、ヘリの巻き起こした風に次々と吹き飛ばされた。やわな造りのビルは、外壁のタイルまではがれて次々と吹っ飛ぶ。車の方も、半分を歩道に乗り上げてのむごう運転が続いている。道行く人々が悲鳴を上げて飛びのいた。車も何台かが接触し、重量負けしてふっ飛んだ。
 そのパニックの中、パオは縄梯子を伝いおりようとした。といっても風に揺られるそれをたぐるのは難しい。仕方ない、とばかりにパオは、ふいっと手を放した。落下しかけたところで、再び縄梯子を掴む。何とか端を掴むことに成功した。
 車の屋根は、足下に迫った。
 だが、一大障害物レースの最中、その位置関係は安定しない。ヘリはできるだけ同じ距離を保とうとしているのだが、街中には看板があちこちから突き出しており、なかなか上手くいかない。
 待っても無駄だ、とパオは判断した。


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