〜FAD-あいだ日記 vol.02〜


・視聴率  FAD-あいだ

 なぜかテレビガイドが手元にあったので読んでいたのだが、嬉しそうに毎週毎週視聴率のベスト10が掲載されている。その番組内容が陳腐なのは置いといて視聴率の話である。視聴率はリサーチ会社がサンプルとなる家庭のテレビに専用の装置を備えつけて計測するものだが、サンプル数は極端に少ない。確か、東京圏のサンプルは300件だったと記憶している。この辺はときどきテレビでも暴露されている。で「たかが300で信用できるデータになるのか?」という感覚的な疑問は、ちょっとした数学のセンセイをゲストに呼んで、そのセンセイの説明で納得させるのがその手の番組の常套手段となっている。で、だいたい95%の割合で±10%の間に落ち着くとかなんとか言って納得させられるのであるが、300万から無作為に300を抽出すれば、それなりの精度は得られるであろうから言ってる事自体は間違ってはいない。しかし、各民放のワイドショーが繰り広げているコンマ以下の視聴率の戦いや、深夜の数%台の視聴率というのは、全くと言っていいほど無意味である。精度的に小数点以下は必要ないはずだし、1%台なんかだと精度はガクッと落ちるはずである。そんな不確かなモノを土台にして、一喜一憂して作っているテレビ番組が面白いわけがないよなー、とドラマのストーリーを読んで確信したわけである。 


・本棚  FAD-あいだ

 他人の家の本棚は素晴らしいものである。まさに宝物庫。その人の趣味、考え方、嗜好、思考の基底、などがある程度推測できてしまう。もちろん、そんなエロい使い方だけではない。自分が興味があっても買うまでには至らなかった本、全然興味がなくても気になる本、それらが並んでいれば、それは素晴らしい宝物庫である。片っ端から借りて読破しよう。ここで一つ気を付けねばいけないのは、相手がコレクターでないかどうかである。金ならともかく本を他人に快く貸してくれない人はヤバイ人である。気を付けよう(笑)。もちろん、自分の本の扱い方が粗雑で有名とか、借りると売ってしまったり、なくしてしまうというアビリティーを持っているなら論外であるが。
自分1人で物事に興味を持ったり、本を買ったりするのには限界がある。友人の本棚はそれを確実に広げてくれる。それを利用しない手はない。え、部屋に招いてくれる友人がいない?大丈夫、その為の(マンガ)図書館だ(笑)。


・モゲた  FAD-あいだ

最近、「モゲた」事が一つあった。それは、携帯電話のテレビコマーシャルである。ポケベル会社も倒産した事だし、2人に1人が携帯を持つ時代と言うのもあながち嘘じゃない話になったようだ。そして、最近になって各社が発売しはじめた新製品。衛星通信だのチケット予約だのおまけを付けて売り出しいるけど「移動中でも通話は途切れません」というのを強調しているCMがあった。「なるほどー。便利になったなぁ。」と思うかもしれないが、そもそも移動中って、いつなんや。車の中、そうCMではタクシーの後部座席だったのが、多くの人が車で携帯電話といえば運転しながら電話をかけるとイメージするだろうし実際そうである。そして、あとは電車の中である。そう、どちらも「携帯公害」として最も騒がれている場所である。携帯電話をかけながら運転すると事故る可能性が高い。これはどんなに否定しようとも反応速度の点において否めない点である。「今ドコよ?」のような切れても困らない会話ならともかく、途切れて困るような重要な電話も、途切れないなら運転しながらしてしまうのであろう。そして、途切れるから諦めていた電車内の電話も、途切れなくなるから会話は弾む一方であろう。なるほど、どちらも「使う人の判断」であり、個人の自由であり責務である。しかし、対策も練らず売っときゃ間違いない、というエロい商売の片鱗をまざまざと見せ付けられたような気がして、私はテレビの前で独りつぶやいてしまうのである。「おえ」。


・D.D.R.  FAD-あいだ

「♪指切りげんまん、ウソついたら針千本飲〜ます」というフレーズを聞いた事ない人はいないはずである。「げんまん」は「ゲンコツ1万回」の略であるのは、あまり知られていないようだが。約束というものは社会生活に置いて一番大切なものである。信用、友情など他人と関わる事柄の根本であり、全てである。しかし、世の中にはいい歳こいて約束を守れない人がいる。約束の重要さを理解していない人がいる。親の教育、家庭環境、友人関係、どこで間違ってたのか、全部間違ってたのか知らないけれど、待ち合わせの時間すら守れない人がいる。待ち合わせをしたなら、その時間に来るのが当然であり、遅れそうなら前もって連絡し、遅れてしまったなら謝罪する。相手は自分のせいで貴重なもの(この場合は時間)を消費しているのである。遅れた理由なんて二の次である。しかし、世の中には凄い面の皮の人間もいる。待っている人が怒ってる(当然)のを見て、意味不明な言い逃れをする人、謝る前にスネる人、それくらいで怒るなと逆ギレする人。どいつもこいつも社会生活不適合者である。なんちゅーか、クズよ!間違いない。


・D.D.R.  FAD-あいだ

 DDRは多人数でやるおもちゃだと思う。多くのギャラリーがいて、多くの仲間がいて、それでいてやっと盛りあがる。矢印がある、踏む。音がなるわけでもない、点が加算されるだけ。ゲージが増減するだけ。ビートマニアやギターフリークスは押せば音がなるからまだマシだ。DDRは踏んでも踏まなくても曲が流れて矢印が登っていくだけ。果たしてこれが「ゲーム」なのだろうか?確かにダンス音楽を使って「カッコ良く」作ってはいるが、やっていることはノルマ付きの縄跳びである。1人でシコシコやるのを「練習」と呼ぶのが全てを物語っていると思う。練習があれば本番があるわけで、本番と言えば...ギャラリーや仲間の前でのお披露目?という事でやはり仲間がいないと成り立たない。ある意味、かなりゲーセン向けのゲームではあるわけだ。全国各地にDDR**組とかが作られている事実からも「群れるゲーム」だというのが分かる。さて、群れた子羊たちは何をしているのだろう?全一を目指してフルコンボ?そんな1%未満の人種は無視する。そう、彼らは「よりカッコ良く踊る」ために努力...違う。「**よりもオレの方がカッコイイ」とアピールする為に日夜プレイしているのである。しかし、カッコいいと言ったって所詮タクの集団。どんぐりの背比べである。そして彼らは人のプレイのアラを探して満足する。「オレの方がカッコイイ」と。DDRの筐体の周りにはそういう邪念が渦巻いている。遠くから見れば黄土色のきしゃないオーラが見えるはずである。嘘だと思うんなら、DDRが盛んなゲーセンに行って、マニアックを選んで2面あたりでミスって終わってみれば分かるはず。嘲笑の視線(運がよければ聞こえるような野次)で体中が犯されるから。そして、彼らの心のランキングにあなたは彼らより下にランキングされ、蔑んだ目で見られる事になる。別にDDRが悪いわけではない。対戦格闘が盛んな時も同じだった。所詮同じ奴等がやってるんだから、まぁ当然の結果か。しかし、DDRはその他人の目が主目的だということが恐ろしいなぁ、と思う今日この頃である。


・D.D.R.  FAD-あいだ

 ちょいと前に出た「買ってはいけない」というタイトルの本。こういう攻撃的なアオリの本の内容は陳腐に違いないと思い気にしていなかったんだが、先日本屋で30分ほど時間を潰すことがあったので、仰々しく平積みされているのを手にとって読んでみた。内容はタイトルからもわかるように「○○社の○○という商品は買ってはいけない。なぜなら...」というのが最後まで続く。槍玉にあげられてるのは 食品、日用品、化粧品などどこでも見かける事の出来るものばかり。そして、なんとその内容はほとんどが「添加物」であった。つまらん。いまさら、コンビニのおにぎりやインスタントラーメンの添加物を取り上げて鬼の首とったかのように騒がれても、読んでいる方が萎えてしまう。どう考えても、普通のおにぎりが3日も持つわけないやん。コンビニやファーストフード、インスタント食品は品質の粗悪さや有害性などの欠点を便利さでごまかしている、そんな事は百も承知である。マクドナルドのハンバーガーを毎日コーラと一緒に流し込むような愚かな事をするのはアメリカ人ぐらいのものである(偏見)。どうせやるなら、各コンビニのおにぎりを集めてどこのおにぎりが一番マシか?というような作りの方がよっぽど納得がいく。だいたい、どういう基準で噛み付いているのかも全然わからないし、「おにぎりは作ってすぐ食え」などというピンボケたコメントがあちこちに載っているのも失笑ものであった。あーあ。