東人の新居浜生活新居浜見聞録


銀行

  新居浜には当然の事ながら伊予銀行などの愛媛や四国の銀行が多くある。住友銀行は新居浜にもある。これが、四国で唯一の住友銀行。住友の発祥地であるためであろうが、松山などの大都市にも住友銀行は無い。 その他の都市銀行で新居浜に支店のある銀行は無い。新居浜どころか、愛媛いや四国にも支店の無い都市銀行も多い。
妻が以前勤めていた銀行は四国には支店が無かった。最も近いところでも岡山あたりである。妻は元銀行員であるため、金利が気になる。最近金利が下がって、今までの預金を解約しようと考え始めた。 どこで手続きするのか?と聞くと、絶句していた。

娘が幼稚園に入園したが、月謝の支払いは銀行振込とのこと。私の口座は住友銀行であったが、東京営業部の口座である。ここから引き落とすことを申請したが、東京で開設した口座からは引き落とせないとのこと。仕方なく、新居浜支店で新しい口座を開いた。 新居浜支店の口座に預金を移さなければならない。そのために、住友銀行のパソコンバンキングを申し込んだ。

   2001年4月1日より、住友銀行の新居浜支店も三井住友銀行の新居浜支店に変わった。

 合併しても愛媛県では唯一の三井住友銀行であり、四国全体でも高松支店が新たに支店に加わっただけであった。


大丸

   新居浜の大丸に入ってみた。東側の入口から入り、化粧品類が並んでいる。
 「フーン、小さいけれど、商品の雰囲気は大丸だな」。
 エスカレーターを上がる。「4階で終わりなんだ」。
 エスカレータを降りて1階に戻る。 
 「あれ、間違えて地階の食料品売り場に来てしまった・・・だけと何か変だぞ!」。 
 多くのデパートは地階に食料品売場がありますが、ここは1階に食料品売り場があったのです。すなわち、化粧品等の売場と食料品売場が同じフロアーにあったのです。
 ちなみに新居浜で地階があるのはニチイだけでしたが、そのニチイも今は店じまいしてしまいました。

 新居浜大丸は1950年に別子鉱業の小売り部門から独立した別子百貨店として営業を開始し、大丸が資本参加して新居浜大丸となったそうだ。
 新居浜大丸は当家でも、よく出かける所であった。 品数には限りがあったが、品質の良い物が置かれていた。質の良い物を探す時には大丸にでかけた。
 その大丸が閉店されるということが新聞で報道された。
 2001年5月27日で店じまいするそうだ。

   
 2001年5月27日、最後の営業を終え、大丸は閉店した。
 当日、新聞のチラシ広告に「50年の思い出」として、新居浜大丸の歴史と当時の写真が掲載されていた。
 
 昭和22年  別子調度事業所として物資販売を開始。
 昭和25年  株式会社別子百貨店を創立。新居浜市に初めてネオンサインが灯りました。
 昭和26年  株式会社別子大丸に社名変更。
 昭和37年  3階建てに大改装オープン。屋上は遊園地に・・・。
 昭和50年  新居浜商業高校が甲子園初出場、準優勝した年、
        株式会社新居浜大丸に社名変更しました。
 平成4年  リニューアルオープン! 現在の新居浜大丸の姿に。

  


蜘蛛

 新居浜の社宅では、蜘蛛も出る。蜘蛛といっても、こちらで出るのは可成り大きい蜘蛛である。時には、大きな蜘蛛が卵を抱いていたりする。
 百足に比べたら可愛いものであるが、蜘蛛が出ると妻が大騒ぎする。
 蜘蛛は益虫であり、殺す気にはなれないので、捕虫網を買ってきて網で捕らえて外に逃がすようにしている。
 ある時には、一日に3〜4匹の蜘蛛を捕らえることもあった。
 
 その後も夏になると蜘蛛を頻繁に見かけた。
 先日、台所で蜘蛛が歩いているのを見かけた。部屋の隅の方に行き、どこかに潜り込んだ。
 その後、その付近をゴキブリが歩いているのを見かけた。その時、一瞬の間に先ほどの蜘蛛が現れ、ゴキブリを捕獲した。
 蜘蛛はゴキブリを捕らえたまま、部屋の高い所に登っていった。
 この家は蜘蛛にとっては獲物の豊富な所なのだろう。
 


百足(ムカデ)

新居浜の社宅には百足が出ると聞いていたが、早速遭遇した。玄関にいた。
百足の退治法はお湯をかけると良いと聞いていたので早速実行して処置し、玄関は水浸しになった。
百足を掴むために火箸を購入した。
畳の部屋にも百足が出没したが、火箸で挟み玄関でお湯をかけて処理。

 ある日、娘が畳の部屋で遊んでいると、娘の近くに突然百足が現れた。
娘を部屋の隅に行かせて百足を追いかけた。逃げ足が早い。廊下に逃げ込み、縁側のアルミサッシの隙間に入り込んだ。外からお湯をかけたが余り利かない。大量のお湯を使ってやっと勝利を得た。
しかし、この百足はどこから出てきたのだろうか?。
突然現れたのを目撃したわけだが、天井から落ちてきたとしか考えられない。天井板の板と板の重なったところに隙間が開いている。ここから落ちてきたのだろう。
その後、シリコーンシーラントを買ってきて、天井板の隙間を充填して塞いだ。

1998年4月29日、台所で百足を発見、追跡して処分した。
右の写真は、その時の記録です。
百足はお湯をかけて殺すと、少し収縮するのか、生きていた時に比べて若干短くなっているようにも思います。
東人が百足の写真を撮っているのを見ていた娘は、自分も百足の写真を撮りたいと言い出し、デジタルカメラを貸した。
妻は、「変な親子」に呆れていた。


運転マナー


 新居浜に限定するわけではないが、四国のドライバーの運転マナーの悪さには驚かされた。
 特に、黄色信号で停止すると後ろの車が追い越して、交差点に突進していくことを何度か経験した。追突されるよりはましであるが・・・。

 また、前車と車間距離を保って走行していると、横から追い抜き、車間距離内に割り込んでくることは日常茶飯事である。この時、方向指示を出さないで車線変更することが多くある。
これを「伊予の早曲がり」と言うようであるが、このようなジグザグ運転は四国内でよく見かける。 
 交差点の手前で、左折や右折の専用車線となっている所からも直線車線に割り込んでくることがある。

 交差点で右折する時にも注意が必要である。
 交差点手前に右折車線が設けられているところもあるが、この右折車線への車線変更も注意しなければならない。右折車線が分岐する手前から、対向車線を走って右折車線に入ろうとする車がある。
 右折車線が分岐してから車線変更した時、後ろから来た車が猛スピードで横を通り抜け先に入っていったことがあった。車線変更にも注意しなけばならない。
 交差点で右折しようと対向車線の直進車の切れるまで待機していると、後ろの車がわずかな切れ目で強引な右折をして追い越していくこともあった。

 赤信号の前で、加速せずに信号の前まで行こうとすると後ろの車が追い越していく。どうせ赤信号で止まらなければならず、一台分先に行っても大差は無いと思うのだが・・・。

 細い脇道を徐行して走っていると後ろに車が追いついてきた。その後、後ろの車がクラクションを鳴らした。 普通の鳴らしかたではない。クラクションを鳴らし続けながら急き立てる。仕方無く、少し先の所で曲がってやり過ごした。後ろの車はその時までクラクションを鳴らし続けていた。

 駐車場内の走行についても、一方通行の矢印が書いてあっても、逆から平気で進入してくる車が多い。私などは、止めるところが見つからないと駐車場の中を何度も回って止める場所を探すことが多い。

 日曜大工センターDIKのように駐車場の広さの割に駐車している車が少ない場合は、さらに恐い思いをする。
 駐車スペースと通行帯にラインが引かれていても、ラインにお構いなしに駐車スペースを突っ切って車が走ってくる。どこから車が来るか注意していないとならない。 前方から来た車と左側ですれ違うことも何度か体験した。
 
 


家族の到着

94年の5月の連休に関東に戻り、妻と娘を連れてきた。娘はもちろん妻にとっても初めての四国。 松山まで飛行機で行き、新居浜に到着した。社宅に入り古さに驚く。娘は広い家の中を歩き回った。 それまで、妻には百足が出ることは話してなかった。百足の話に驚き、恐れていた。
家族を連れて近場を案内した。滝の宮公園にも連れていった。ここは気に入ったようだった。
買い物にフジグランへ連れていった。このころは娘は1才半であり、買い物の間「おとうさんといっしょ」と言う名前の、背中合わせにオンブするもので背負っていた。 この光景は印象的だったのか?。最近になっても、レジの人が娘を見て、「大きくなったね。ついこの前までお父さんの背中にオンブされていたのに・・・」と言われた。


テント車庫

新居浜の社宅の庭には車庫が有った。 テント車庫というトンネル状のフレームにビニールシートを張った車庫であるが、このようなものを初めて見た。 中はやや狭く、車庫入れにも苦労した。 車庫の真ん中に入れると、自分が車から降りられない。左側にぎりぎりまで寄せなければならない。 車庫入れの時に、左側のフレームに擦って車に傷がついたこともあった。
冬の風の強い日、車庫のテントが破れた。元々古いテントで傷んでいたが、強風でズタズタに破れてしまった。 娘は「北風小僧の寒太郎」が破ったと信じ込んでいた。テント屋に連絡して、新しいテントに張り替えた。
夜間、車庫の車の上で猫が寝ているようだ。気がつくと、フロントグラスにドロ足で滑った跡があり、ボンネットには猫の足跡がいくつも残っている。 朝になると猫はどこかに行ってしまい、寝ているところは目撃したことは無い。図々しい猫である。


新居浜の道路

  新居浜に赴任してから約1週間後、陸送により車(習志野ナンバー)が届き新居浜市街を走る。
道が良いが皆スピードを出していて恐さを感じた。
それまで住んでいた市川の道路事情が最悪であったためであるが、新居浜の中では道幅の狭い昭和通り(30km/h規制)などを走ると安心できた。

新居浜の地図を見ると道路に名前が書いてある。この道路名は新居浜の人には通じないものがあるようだ。市役所がつけた名前と人々が呼ぶ慣用名が違うらしい。
市役所名 慣用名
楠中央通り 堺筋 ※
平和通り 市役所通り
※ 堺筋については「坂井筋」と表記すべきとの説もある。確かに坂井町につながる道である。
 正式名称は楠中央通りであるが、慣用名の「さかいすじ」は、「坂井筋」と書くべきものかも知れない。 。
 新聞チラシの中で店の所在を示す地図には「堺筋」と書かれているものが多い。
 
 登道で銅が運ばれていた時代、坂井町の辺りには「堺」という字が使われていたようだ。
 楠中央通りが整備されたのはそれほど古く無い。
 整備される前にも「堺筋」と呼ばれる道筋が有ったのだろうか?。

 
新居浜の道には、変わった形をした交差点が多い。 惣開町の住友化学の前の交差点は、6叉路である。 また、別子銅山記念図書館の前も、少し変形した6叉路、新居浜大丸の前は5叉路である。 交差点の信号の青になる順序が工夫されているのか、このような交差点を通るときにも別に怖い思いをすることは無かった。


新聞

新居浜でも朝日新聞を購読する手続きをした。こちらでは新聞は朝刊のみで、夕刊は発行されない。従って、新聞で見るニュースは前日の夕方のテレビで報道された内容がほとんどである。
インターネットを始めてからは、Asahi.comで最新ニュースを確認するようになった。

昔は、ちり紙交換が町内を回って古紙を回収していたが、今日では古紙回収業が少なくなった。 市川にいた頃は新聞店が古新聞回収袋を配り定期的に古紙を回収してくれた。 新居浜の新聞店では古紙回収はしていないようで、回収袋も配られない。古紙は、可燃ゴミとするか、町内会の廃品回収に出すしかないようだ。


市役所

住民票を移しに市役所に行く。人口の割には立派な市役所に驚く。
この新居浜市役所がホームページを開いていました。


瓦屋根

四国に来て瓦屋根の家が多いのを感じる。
関東では関東大震災で瓦が崩れて被害が大きかったため、スレート屋根が多い。 
私の社宅も瓦屋根で、良く見ると一部に会社のマーク(#)が入っていた。
星越の地区はこのような瓦屋根の社宅が建ち並び、見るからに古いが今でも操業している選鉱場が社宅から見える。

立ち並ぶ瓦屋根の社宅

手前の空き地には、昔共同浴場があったらしい。

近郊の観光地/新居浜市内/星越参照。


社宅

社宅に着いた。古い社宅であることは知っていたが、かなり古い。聞いた話では、築60年とのこと。同じような古い社宅が立ち並ぶ。
玄関の前には2畳間がある。ここは通路としか使えない。
台所の脇には3畳間があるが、ここは昔の女中部屋だったらしい。女中部屋の横には女中専用のトイレの形跡(入り口は閉じられていた)がある。 
主な居住空間は6畳間が2室、4畳半が1室。畳のサイズは普通より大きく、6畳間も8畳程度の広さに感じる。
一つの6畳間には床の間があるが、当家では床の間にテレビを置いている。
転勤前に貰った間取り図に、「フ」とか「シ」とか書いてあった。フスマと障子であった。障子が沢山有り、後に、娘が破った障子の修理に追われることになった。

新居浜に着いた最初の日は社宅の掃除をして、その晩はリーガロイヤルホテルに泊まった。次の日に引っ越しの荷物を受け入れた。 暫くの間は、段ボールの山の中で一人暮らしであった。


新居浜駅

 市川の借上げ社宅から荷物を送り出し、その日の夜に東京から寝台特急瀬戸で四国に向かった。
 
 四国という土地に足を踏み入たのは、約1年前に徳島に出張したのが最初で、2回目の四国は転勤であった。
 寝台特急瀬戸に乗るのも初めて。なかなか眠れなかった。
 瀬戸大橋を渡り、坂出で乗り換えて新居浜に向かった。寝不足で少しウトウトしていた。
 新居浜から転勤してきた人から、「新居浜の駅の辺りは寂れている」という話を聞いていた。
 新居浜は、昔栄えた銅山に近いところ(山)と、その後に栄えた海寄りの精錬所の周辺(浜)があり、新居浜駅は山の地域と浜の地域の中間の何も無いところに位置しているとのことであった。
 
 新居浜駅に到着。比較的小さい駅ではあったが、以前に住んでいた群馬県の駅はもっと小さかったので、別に気にはならなかった。  


市川での生活

千葉県市川市に住んでいた頃は、会社の借上げ社宅に住んでいた。 2階立ての家で、1軒に2世帯が入る構造であった。 2階は6畳の板の間と4.5畳の畳部屋、1階は、10畳分程度のキッチンとダイニングに風呂場とトイレがついていた。 寝る場所は2階の4.5畳間。妻の嫁入り道具の大きな箪笥。娘が生まれてからはベビーベッドが置かれた残りのスペースで布団を敷いていた。 この程度の家で、正規に借りると月12万円であった。借り上げ社宅であったため、規定の社宅費を支払い差額は会社が負担していた。 また、家の前に車を停める場所があり、ここは個人負担で月1万円であった。家の前の道は細い道で、車がすれ違うことができない。 しかし、一方通行にはなっていないので、両方から車が入ってくる。
普段は車で通勤していた。距離は5km程度であったが、途中渋滞するので約20分かかった。また、車を使わない場合は、バスでJRの元八幡駅(あるいは京成八幡)まで出て、電車で市川駅(あるいは市川真間駅)からまたバスに乗るという経路で、約1時間かかった。 バスに乗るためにバス停で待っても予定通りにはバスは来ない。待ちくたびれて駅まで歩くことが多かった。歩き出すとバスがきて追い越されることもあった。バスに乗ったとしても、すごい混雑であった。
東京までは、駅から約30分で出られた。本を買うときは八重洲ブックセンターや神田の神保町、CDなら銀座の山野楽器、コンピュータ関連の電気製品等は秋葉原などに出て探し回った。
妻の実家のある松戸市までは、車で約30分で行けた。それなりに生活に慣れていたが、94年の3月の末に突然転勤の話が舞い込んだ。
新居浜に行くことになったが、新居浜には一度も行ったことがなかった。娘も小さかったので最初は妻子を妻の実家に預けて単身で赴任することにした。