東人の新居浜生活新居浜の暮らし新居浜の暮らし(2)


鬼の居ぬ間の洗濯

 妻が入院し、娘を親戚に預けて、東人が新居浜で一人暮らしをしていた頃の、鬼の居ぬ間の洗濯は、部屋の模様替えであった。
 四畳半の部屋には東人の机とコンピュータが置かれていた。その他、空いたスペースには色々な物が乱雑に置かれていた。
 東人の机は、娘も使っていた。娘も絵を描いたり、工作したりで机を使っていた。そのため、色々な物が置きっぱなしになっていた。
 鬼の居ぬ間の洗濯で、東人の机の配置換えをした。そして、娘の机を置くスペースを確保した。
 散らかっていたガラクタは、段ボールにまとめて整理した。
 
 鬼が帰ってきてから、娘の机を買いに行った。
 確保したスペースに娘の机が置かれ、東人の机が侵略されることが無くなるかと思った。
 その後、娘が部屋全体を散らかすようになり、足の踏み場も無くなる状態となった。
 娘の机の上に置ききれない物は、東人の机の上に置かれるようになった。
 部屋全体を乗っ取られたようだ。

机を購入して設置した時

その後・・・


ランドセル

   
 娘の通っている幼稚園の行事には、親も参加する行事もある。
 東人は、今まで運動会には見に行ったが、その他の行事には参加したことが無かった。
 クリスマスの時には、娘は劇の中でマリア様を演じたが、そのためにに会社を休んで見に行くわけにもいかず、参加しなかった。

 2月20日に開催された「生活発表会」は、学芸会のようなものであるが、娘の幼稚園生活の最後でもあり、見に行った。

 会場には、多くの父兄が見に来て、ビデオカメラを構えたりしていた。

 娘の出番は、年長組全員での楽器演奏と歌を歌うことであった。
 歌った歌は、娘が最近よく歌っていた「さよなら ぼくたちの 幼稚園」という歌

 ・・・・・・
 さよなら ぼくたちの ようちえん
 ぼくたちの あそんだ にわ
 さくらのはなびら ふるころは ランドセルの いちねんせい
 ・・・・・・
 という歌である。

 生活発表会は午前中で終わり、娘をつれて帰宅した。
 その日の午後、松戸のおばあちゃんから贈られた、ランドセルが届いた。
 娘の体に比べると大きなランドセルと感じた。
 
 その後、洋服屋に行き、小学校の制服を買いに行った。これも体に比べて大きいものであった。

 制服やランドセルは今の娘の体には不釣り合いに見えるが、いずれ成長して違和感もなくなる事だろう。
 娘も小学校に行くのを楽しみにしている。


娘の旅

 
 ママが入院する事になった。入院している間、千葉県の船橋の叔母さんの家にお世話になることになった。
 出かけるときは、パパと松山空港まで行き、東京から到着したおじいちゃんと一緒に飛行機に乗って羽田に向かった。
 羽田に着くと、船橋の叔母さんが迎えに来ていて、一緒に船橋の家まで行った。

  叔母さんの家に行って、寂しがるのではと両親は心配していたが、叔母さんの家でも普段と変わらず自由奔放に暮らしていたようだ。
 買い物に出かけて欲しい物を見つけると梃子でも動かない。貸しビデオ屋に通い、色々なビデオを毎日見て、お絵かきしたり、工作したり・・・・やり出すと夢中になっていた。
 両親はホームシックになることを心配していたが、そんなことは無かった。
 
 娘の滞在中に、6歳の誕生日を迎えた。叔母さんの家で、誕生日を祝ってくれた。
 娘は楽しく暮らしていた。
 その間、ママは寂しい病院暮らし。パパは、久々の鬼の居ぬ間の洗濯をしていた。

  ママが退院し、娘を引き取ることになった。電話で新居浜に帰る話をすると、娘は大喜びではしゃぎ回った。それを見た叔母は、恩知らず娘に呆れていた。
 
 帰りは、全日空のジュニアパイロット(お子さま一人旅)で帰らせることにした。保護者が見送りと出迎えするだけで、飛行機の中の面倒はスチュワーデスさんが見てくれるサービスである。
 ジュニアパイロットで帰ることにも娘は動じなかった。
 松山空港に到着し、両親と再会しても泣くこともなく、はしゃぎ回っていた。
 

  娘も戻り、家族三人のリハビリが始まった。遅ればせながら、娘の誕生日のお祝いもした。
 誕生祝いの学習机を買いに行った。
 娘の学習机を置く場所の確保が、パパの鬼の居ぬ間の洗濯であった。
 学習机も届き、娘は大満足。

  数日後、船橋の叔母さんから荷物が届いた。
 娘が世話になっている間に買ってもらった玩具が大量に入っていた。
 こんな贅沢をさせて貰っていたのか!。


オートマチック車

 普段乗っていた車が故障を起こして修理することとなった。修理期間中、修理屋から代車を借りた。 代車はオートマチック車であった。
 東人は、昔のフォルクスワーゲン−ビートルから今のゴルフまで、マニュアルシフトの車を乗ってきた。
 オートマチック車には慣れていない。 恐る恐る運転していた。修理は少し長引き、代車に乗る期間が長くなった。
 オートマチック車に乗っても、左足を踏ん張る癖がついていた。
 暫くして、左側の腰が痛くなった。寝違えたものかと思っていたが、このオートマチック車に乗ったためかもしれない。
 その後、修理が終わり、自分の車で運転するようになった。
 暫くの間、ギアチェンジが下手になったことを感じた。


小学校

 娘が小学校の入学前の身体検査のため、入学予定の惣開小学校に出かけた。
 来春入学予定の生徒は81人とのこと。この人数は、重要な意味を持っている。生徒数が81人以上なら、3クラス、80人以下なら2クラス構成になるらしい。
3クラスだと、1クラス27人程度。ややさみしい感じがする。2クラスだと40人で、普通かと思うが、もう少し少ない方が教育が行き届くかと思う。
 娘が通うことになる惣開小学校は、クラスの分け方を「松竹梅」で呼ぶらしい。近所の人が「タケノ先生」と言っていたのは、「竹野」先生では無く、竹(クラス)の先生の意味らしい。 2クラスなら、松クラスと竹クラスということか。
 東人が小学生の頃は、1クラス40人程度で、6〜7クラス有った。1学年2〜3クラスとは少ないように感じる。
 生徒数は少ないが、惣開小学校のレベルは高いらしい。
 一説によると、マリア幼稚園、惣開小学校、西中学、西高校がエリートコースとのこと。
 エリートコースかどうかは疑問であるが、新居浜の西高校の進学率は全国にある有名進学校並であり、教育レベルは高いらしい。惣開小学校から西中学へは、同じ校区であり自動的に進める。西中学から西高校への進学率も高いらしい。
 当家の娘が高校に進学するまで新居浜に居られるかはわからないが、このまま居れば、このコースをたどるのだろうか?。     


自転車

 娘が自転車を欲しいと言い出した。一緒に遊んでいる近所の子供が自転車に乗っていて、欲しくなったようだ。子供は成長するに従い新しい事を求める物だ。
 自転車。これには少し気がかりがある。
 実は東人が子供の頃、親からは「鉄砲玉」と言われていた。家を出るとなかなか帰ってこないためである。自転車に乗って、かなり遠くまで行っていた。夜遅くに帰ってしかられた覚えがある。
 今、娘は自転車に興味を持ち始めた。どうしたものか?。
 結局、娘に自転車を購入した。24inchで、近所の子供達の自転車よりは大きかった。
 娘は喜び、自転車の絵を描いた。
 娘も近所の子供達の仲間になれて良かった思うが、「鉄砲玉」になることを恐れている父である。 

デジタルカメラによる写真

スキャナーによる画像


庭の草花

 新居浜の星越の社宅には広い庭がある。土の質は良くないが、整地して種を撒いて草花を育てている。
 市川に居た頃も小さな土地で花を育てていたが、その時の種を持ってきた。 ロシアヒマワリ、マリーゴールド、おしろい花等の種を撒き、花が咲いた。
 おしろい花とマリーゴールドは毎年、落ちた種で芽が出てくるようになった。おしろい花は移植は難しいので、芽が出たら周りの雑草を取り、そのままにしている。 マリーゴールドは毎年、種を撒かないでも雑草のように芽が出てくるようになった。 出てきた苗を移植して、庭の西側にマリーゴールドのベルトを作った。
 


娘の話

 娘は、自分がママのおなかの中にいた頃を覚えているという。
 おなかの中では、上から垂れ下がった紐を引っ張ると明かりがつき、テレビもあり、冷蔵庫もあったそうである。また、ドアもあったらしい。
 娘が生まれた時は1月の寒い日であった。娘もその日は、冷蔵庫のドアを開けっ放しにしていて、寒かったと言っていた。
 おかしな娘の便利なおなかについての戯言である。


かいしゃ

 東人の仕事が忙しかった頃、休日にも半日程度会社に行くことが多かった。
 休日の前日、妻が聞いた。「パパ、明日、幼稚園に行くの?・・・いや、会社行くの?」
 幼稚園など行くはずがない。東人一家の生活は娘中心で動いているようで、このような間違いをしたのだろう。
 
 娘が聞いた。「会社には先生はいるの?」。・・・上司のことかなあ。
 娘の通っている幼稚園では、年長組は「すみれ組」という。
 「パパは、会社では何組?」・・・。「マリーゴールド組かなあ」。
 娘は会社を幼稚園と同じように思っているようだ。

 以前、ある人から聞いた話。商売人と農家の子供は親の仕事をしている姿を見て育つため、親を尊敬しているが、サラリーマンの子供は親の仕事は判らず、親を軽く見ることが多いらしい。
 東人は商売人の子であった。父は金物屋であり、子供の頃、父が帰宅した時、いつも油で手が汚れていたのを覚えている。そのような父の姿を見て育った。短期間ではあったが父の働いている店でアルバイトしたこともあった。
 娘はサラリーマンの子供として、親がどのような仕事をしているか、判らないまま育つのだろうか?。


バイオリン独奏会

 娘の習っているバイオリン教室の発表会が、1998年6月28日に松山市の愛媛県生涯学習センターの県民小劇場にて開催された。
 去年、当時4歳の娘は「むすんで開いて」を弾いた。今年は、ゴセックのガボットを弾くことになり毎日練習していた。
 独奏会の1週間前にお多福風邪にかかったりして、参加できるか心配していたが、お多福風邪も治り、無事済ますことが出来た。
 ゴセックのガボットと聞いてどのような曲か思い出せない人も多いかと思う。 ガボットは、小学校の低学年の音楽鑑賞曲になっていたと記憶している。しかし、それ以後、ゴセックという作曲家の名前を耳にしたことが無い。曲を聴けば思い出す人も多いだろうが、途中に早い指使いを要する所やピチカートの部分もある。かなりの難曲のように感じていたが、5歳の娘は、1/16という最小のサイズのバイオリンで見事に弾いていた。
 
 他の生徒の演奏も聴いたが、小学生でも驚くような高度な曲を見事に弾いていた。
 以前は、ガボット等の曲を弾くようになるのは、かなり先のことかと思っていた。ガボットまでたどり着いたと思ったら、さらに先が長いことを感じた。
 
 個人の演奏が終了した後、全員で「キラキラ星変奏曲」の三重奏を行い独奏会は終了した。

 難しい曲を弾きこなしていた小学生達も、独奏会が終われば、会場で遊び回る普通の小学生であった。

1998年の独奏会にて「ガボット」演奏中の娘

スズキメソードバイオリン教室愛媛支部全員による「キラキラ星変奏曲」三重奏

1999年の独奏会にて

1999年の独奏会は、7月4日(日)に開催され、娘はドボルザークのユーモレスクを弾きました。