東人の新居浜生活新居浜見聞録 Part 6


レデイ薬局

  愛媛県ではこの名前の薬局を多数見掛ける。 
 千葉県の松戸市を中心として分布する「マツモトキヨシ」という薬局チェーンほどでは無いが、県下の色々なところに店がある。 

 ちなみに「マツモトキヨシ」とは、昔の松戸市の市長であった松本清のフルネームで、在任中に「すぐやる課」を作って話題になった市長である。その市長が始めた薬局が大きくなったものらしい。最近では、東京の渋谷にも店を出し、関東では「マツキヨ」として知らない人が無いぐらいに有名になった薬局である。

 愛媛の「レデイ薬局」は、店舗数では「マツモトキヨシ」には及ばないが、県下至る所に大型の薬局が存在する。新居浜にも3件ほど店がある。薬だけでは無く食品や雑貨なども置いてある。
 この薬局の名前を、東人は今まで「レディ薬局」と読んでいた。ハートの中にレディの文字。女性専用の薬局かと当初は思ったが、そんなことは無かった。
 
 最近、娘がカタカナも読めるようになり、この看板を「れ・で・い」と読んでいた。「れ・で・い」では無く、レディ薬局だと教えたが、娘の方が正しかった。
 看板をよく見ると、確かに、「レデイ」と全て同じ大きさの文字で書かれている。
 大人は先入観があり、文字を正確に見ていないことに気がついた。
 レディと「れ・で・い」では、聞いたときの響きが全然違う。
 「マツモトキヨシ」も薬局の名前としては変ではあるが、「れ・で・い」薬局とは変な名前をつけたものだと思うようになった。  


愛大

 新居浜に来た当初、意味の判らなかった言葉の中にアイダイという言葉がある。
 「誰々はアイダイ出身だ。」などと使われているので大学の略称と判るが、アイダイと聞いても余所の人なら愛知大学と思うだろう。
 愛媛県ではアイダイといえば、愛媛大学の略称の愛大になる。

  地元しか通じない学校の略称はどこにも有るようだ。
 新潟大学のことを、新潟ではシンダイ(新大)と呼ぶ。しかし、関東の人がシンダイと聞けば信州大学と思うだろう。実際、信州大学も長野ではシンダイ(信大)である。
 関西でのシンダイは神戸大学を意味するようだ。
 

 高校の名前についても、工業高校と普通高校を分けるために、読み方を変えることもある。
 群馬県の高崎では、高崎工業高校のことをタカコウ(高工)と呼び、普通校の高崎高校は、タカタカ(高高)と呼んでいる。
 
 再び新居浜の話になるが、ピンダイという名前も聞いたことがある。
 新居浜には、昔、桃山短期大学の校舎が有ったらしい。その後廃校になったようだが、現在の広瀬公園近くにある、「高齢者生きがい創造学園」がその大学の校舎だったとのこと。

 桃山短期大学が何故、ピン大になるか?。

  桃山短大→桃山→桃→桃色→ピンク→ピン大
の連想から来ていると説明された。
 ピン大ピンタン(ピン短)とも呼ばれていたそうだ。

 このピン大ピン短という略称が一般の人にも使われていたものかどうかは判らない。


ときめき水都市

   ときめき水都市とは、このホームページでも紹介している西条市の野菜販売所である。
 農家が作った新鮮な野菜を安く販売している。物によっては、市販の半額か、半額以下の場合もある。
 時々、野菜を買いに西条まで出かけることもあるが、西条はやや遠い。出遅れると売れ残りしか残っていない。また、午後3時にはレジも閉まって販売が終わってしまう。
 「ときめき水都市」の販売所が新居浜の喜光地にできているのを発見した。喜光地も家からは行きにくい場所であった。
 
  ある時、西の土居のスーパーマーケット「サンライフ」に行こうとすると、駐車場に「ときめき水都市」の販売所ができていた。ここなら家からも近い。品数もそこそこ揃っている。
 西条まで買い出しに行かなくても良さそうだ。


イルミネーション

 新居浜に来た最初の年末、車を運転していると、大きな木にイルミネーションが灯されているのを見掛けた。
 これが、金栄小学校の校庭にある「ドリームツリー」で、メタセコイヤ(高さ約26m、樹齢約50年)の木が、毎年、年末年始にかけて約4,000個の電球で飾られることを知った。
 
これは、新居浜の恒例行事となっている。

 1997年は市制60周年ということで、1997年12月6日から1998年1月15日の午後5時から午後10時まで、ライムライト夢街道 in NIIHAMA として平和通り(市役所通り)の裁判所前から郵便局までの銀杏並木及び中央公園内の樹木にイルミネーションが灯された。


不在者投票

 愛媛県知事選挙の投票日が1999年1月3日に設定された。
 正月三が日に投票日を設定するなど、 前代未聞のことであり、何を考えているのかと思う。
 東人も正月は帰省を考えているので、当日の投票は困難である。

 不在者投票については今まで経験が無かったが、どのようにするか調べてみた。  不在者投票は選挙管理委員会に行く必要があるらしいが、選挙管理委員会がどこにあるか判らない。どうも市役所の中らしい。

 市役所に行き、手続きをした。
 市役所の北側の玄関に入ると、右側に不在者投票場が設けられていた。
 最初に、不在者投票の理由の確認を受け、住所・氏名を記入し、本人確認を行う。
 次に投票用紙の入った封筒を受け取る。封筒は2重になっていて、投票用紙を入れた内側の封筒は無記名、外側の封筒には記名して、立会人の確認後、投票箱に入れた。
 不在者投票は初めてのことであったが、意外と簡単に済んだ。

 不在者投票場は、選挙の前日まで、休日でも開いているとのこと。多くの立会人が居たが、元旦も仕事しなければならないとはご苦労様なことである。

 当然の事ながら、今回の県知事選挙で不在者投票する人は、急増している。12月28日付けの愛媛新聞では、告示から11日間で、6万7442人が不在者投票し、過去の記録を大幅に上回っているとのこと。
 正月に選挙することは好ましいこととは思わないが、今回の選挙で、多くの人が不在者投票の制度を知ることになるというメリットも有りそうだ。
 
 選挙の結果は大差で加戸氏に当選が決まったようだ。
 新しい体制での今後の愛媛を期待したい。
 
 


郷土弁当

 新居浜のフジグランで郷土弁当というものを売っていた。
 新居浜市の特産品の弁当では無い。新居浜市内の地域毎の特産品を使った弁当である。
 市外の人には判らないことであるが、どのようなものが特産品か調べてみた。 
 

地域名

位置

特産品

弁当

コメント

大江

市内中心部北側 
海寄り

いわし

魚かば焼き弁当

大江は住友化学の工場のある地域と思っていたが・・・。

垣生

市内北東部 
海寄り

ジャコ

じゃこ飯弁当

新居浜でもジャコ(シラス)が取れたのか

庄内

新居浜駅の北側 

芋(里芋)

瀬戸内弁当

里芋は大洲市が名産だが、新居浜でも作られていた。

船木

市内南東部 
山寄り

ゴボウ 

牛丼弁当

ゴボウは牛丼の主役では無いが・・・。

萩生

市内南西部 
山寄り

竹の子

酢豚弁当

筍も酢豚の主役では無いと思うが・・・。

上原

市内南西部 
広瀬公園の辺り 

サツマイモ

伊予寿司弁当

サツマイモの天ぷらが一枚だけ入っていた。


東予港

 新居浜には、神戸行きのフェリーの発着する東港がある。その他に、西側の西条寄りに東予港がある。
 ここは、主に海外からの鉱石が入る港で、降ろされた鉱石は近くの精錬工場に運ばれる。
 普段は一般の人が乗船に利用する港では無いが、魚釣りをしている人はよく見掛ける。
 
 先日、この東予港にて、海上自衛隊の主催によるクルージングが開催された。  招待された人へのサービスであるが、掃海艇で約2時間の瀬戸内海クルージングが行われた。
 招待券は無かったが、この催しがあることを知り見に行った。
 掃海艇は3艘停泊していた。掃海艇は思ったより小さい船で、一見、普通の作業用の船のようであったが、前方の甲板には機銃が備え付けてあった。
 出発の時刻となり、掃海艇は招待客を乗て出航した。
 自衛隊の設備も、このような国民へのサービスに使われる平和な日本であり続けてほしいものである。


松の木

社宅の玄関の脇には松の木が生えていた。社宅が建築された頃に植えられたものであったろうと思う。
 その松が、この夏に枯れてしまった。松食い虫のせいだろうか?。
 その後、会社から帰宅すると、娘が「悲しい」と言い出した。
 娘が幼稚園に行っている間に、会社から派遣された人が松の木を切りに来たらしい。今では切り株しか残っていない。 
 近所の家でも、松の木が枯れたという話も聞いた。
 松食い虫の被害が拡大しているのだろうか?

 今まで有ったものが無くなると、違和感を感じるものである。
 
 



惣開小学校

  東人の家の裏に近所の小学生が集まり、集団登校する。 出勤するのに車を出すとき、小学生が数人集まっていることがある。気をつけながら車を出すが、小学生達はワザと車ギリギリまで近づいてくることもあった。
 
 この地域では、近くの惣開(そうびらき)小学校に通っている。
 惣開とは、現在の住友化学の工場のある惣開町という地名からきている。
 嘉永年間(1848〜1854)に別子支配人の清水右衛門が墾した新田で、総右衛門新開といわれていた地域であるが、後に約されて総開と呼ばれるようになった。
 総開の字は、総右衛門の総の字を使っていたが、逓信省(現郵政省)が郵便局名を惣開としてから、惣開と書くようになったそうだ。
 
 惣開小学校は、今は市立の小学校であるが、昔は住友系の社員の子供の通う私立学校であった。昔は全国でも指折りの優秀な小学校だったそうだ。今でも新居浜ではレベルの高い学校と見られているらしい。
 
 平成7年には創立100周年とのことで、何故か当家にも記念の下敷きが配られた。  1895年、明治28年の開校ということになる。
 下敷きには平成7年当時の全校生徒と先生の全員の写真が載せられていたが、全員で400人程度の小さな小学校のようだ。
 
 昔の校舎は趣のある建物であったそうだが、現在は鉄筋コンクリート造りの普通の学校の建物になっている。
 
 娘がまだ小学校に入学していない頃でも、選挙の時には惣開小学校の体育館が投票場になるため、小学校まで出かけた。また、惣開校区の運動会は惣開小学校で開催される。
 
 新居浜では、小学生から制服を着て通学する。
 当家の娘も、この制服を着て、小学校に通っている。

 
  配られた下敷きに書かれていた校歌
 
   作詞 越智武平       作曲 山田耕筰
 
 1 潮風凌ぐ御代島の松
   砕くる怒濤に動かぬ巌
   あ々この力こよなく強し
   堅き体に吾等鍛へん
 
 2 燧の灘は遙かに展け
   くめども尽きぬ真青の潮
   あ々この教こよなく深し
   学びの業を吾等修めん
 
 3 仰げ別子の嶺かけて
   清らに澄める御空の極
   あ々この諭こよなく遠し
   誠の道に吾等進まん

 惣開小学校の校歌は、「この道」や「赤とんぼ」等の数々の愛唱歌を作った山田耕筰の作曲とは驚いた。


1998年の夏

 1998年の夏、こちら新居浜では猛暑が続いている。
 関東では梅雨明けも遅れ、梅雨が明けても天気が悪い日が続いていると報じられていた。 
 同じ日本でこうも天気が違うかと驚かされる。
 その後、福島県の水害のニュースが報道された時も、最初は外国の出来事かと思った。
 関東で大量の雨が降っている時も、四国では晴天の日が続いた。新居浜の8月1ヶ月間での降水量は6mmとのこと。1994年の水不足の時ほどではないが、雨の少ない日が続いた。

 お盆休みが明けた8月17日、お昼のニュースの全国版で、「愛媛県の新居浜市で36.7度を記録し・・・」と報じていた。この日は新居浜が日本で一番暑かったらしい。

 この暑さのためか、家の中では百足を頻繁に見かけるようになった。連日のように、3cm程度の長さの百足の子供を見かけて処分した。風呂に入ろうとしたらお湯の上に百足の子供が浮いていたこともあった。 親の百足も出てきた。 
 ネズミ が出たり、ゴキブリや百足が出たりで、お盆休みに旅行に行ったときには、バルサンを焚いて出かけた。いや、バルサンを焚くために旅行に出かけたと言った方が正しいかもしれない。
 帰宅してから部屋を調べたが虫の死骸は見あたらなかった。風呂場を見ると、相変わらずゴキブリがチョロチョロしていた。また、ネズミの穴の前のネズミホイホイには蜘蛛がかかっていた。その後、同じネズミホイホイにゴキブリもかかっていた。
 バルサンを焚いても効果はなかったのか?。
 これだけ多くの虫たちが自由に出入りできる家である。バルサンの煙が出ても逃げ道はいくらでもあるのかもしれない。
 
   


神戸

 1998年の夏休みに何処に行こうか考え、「神戸」に行くことにした。丁度、明石海峡大橋が開通して行きやすくなったはずであった。日帰りは無理なので一泊旅行を考え、宿を探した。
 神戸の近くの有馬温泉の宿にインターネットで問い合わせたり、電話したりしたが、どの宿も一杯であった。
 仕方なく、神戸の須磨地区の小さな宿を探し当て、予約して出かけた。 
 行きは、高速道路のルート検索結果に従い、新居浜から松山自動車道で三島川之江インターに出て、R192で美馬まで行き、徳島自動車道で徳島に入り、神戸淡路鳴門自動車道で明石大橋を渡り神戸へ入った。
 徳島までは高速がまだつながっていないのがネックで、R192の39kmの行程に時間が掛かった。
 第二神明道路の須磨インターを出てからは、渋滞に巻き込まれたが、予約した宿を探し当てた。
 小さな宿であったが、食事は満足のいくものであった。
 その宿で見たテレビの近畿版のニュースで有馬温泉で食中毒が発生したことを知った。その食中毒患者は150人ほど出たそうである。その当時は、和歌山や新潟での毒物混入事件が連日報道されていたが、地方の一般の食中毒は全国ニュースにもならず、初耳であった。
 食中毒を起こした宿は、有馬温泉でも一番大きなK旅館とこのことであった。K旅館は宿探しで問い合わせて断られた宿の一つであった。予約が一杯とのことで断られたが、営業停止になっていたのだった。その煽りで、外の旅館にも宿泊客が流れて、予約が取れなかったのだろう。
 たしかに、この時期の神戸付近は高校野球とも重なり、応援客も大勢来ていただろうが、それ以外の要因もあったことを知った。

 神戸の中では震災の傷跡は認められなかった。しかし、旅館の人と話してみると、当時の大変な状態を語ってくれた。その旅館も被害を受け、しばらくは復旧工事の業者の宿舎にもなっていたそうだ。
 今でも仮設住宅で不便な生活を強いられている人たちも居るそうであった。
 神戸の人たちの会話には、「震災前はこうだった、震災後にこうなった」という言葉が良く出てくるそうである。かつての「戦前、戦後」のように震災を境に全てが変わったのだろう。
 神戸の元町のアーケードを歩いたとき、娘が足下を指さして「字が書いてある」と言う。見てみると煉瓦敷の道路の煉瓦一枚一枚に、神戸の人への励ましのメッセージなどが書かれていた。

 復興した神戸の姿、人々の心に残る傷跡そしてそれを乗り越えてきたエネルギーを感じた旅であった。

 神戸からの帰りは、山陽道経由で帰った。行きのコースは地図で見ると新居浜から神戸までほぼ直線で結んだ道を通って来たが、途中で高速道路が切れていたのがネックであった。
 帰りの山陽道は、地図から見るとやや遠回りであるが、途中大きな渋滞もなく順調に新居浜にたどり着いた。