
ロシア人墓地 松山
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楽園の捕虜収容所
『捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して破れた心情をくみとって、一時の敵がい心にかられて侮辱を与えるような行為はつつしめ』明治37年3月4日、日清につづく日露の役の露国捕虜の収容地が再び松山に決まったとき県は告諭第二号で県民に接する態度を指示した。
ロシア兵墓地を訪れて
- ロシア兵が松山に住んでいたことを知って
ロシア兵の墓地を実際に見て、たくさんの墓があることに驚いた。その上身近な所に墓があることとか彼たちが松山に住んでいることを初めて知った。そんな彼たちの墓は、ボイスマン大佐の像に見守られながら静かに眠っていた。暗い長いトンネルを抜けられないまま・・・
これを調べてみて、自分も古い歴史をそして松山についてももう一度調べ、見直していきたいと思う。
増田 和也
- ロシア兵の記憶
日露戦争当時、私は生まれていなかったのであまり詳しいことは分からないが、目をつぶってみればその時の状況が頭に浮かんでくるような気がしてならない。 なんとロシア兵は外出も自由で、海水浴まで許されていたそうじゃないか。なのに・・・ なのにワシリー・ボイスマン大佐ら98名が祖国の地を踏むことなくこの世を去ったそうである。そのことに関しては非常に残念極まりないことぞと思う。冥福をお祈りします。
落合 宏紀
- 私達に求められるもの
戦場で戦った兵士達の悲しい嘆きの声が聞こえた。
そして、その声は松山での捕虜生活を物語っていた。 私は、
ボイスマンをはじめとする諸兵士が、再び祖国の地を踏むことなく死んでいったことが悔しい。
これからの日本を支える私達は、このような過ちを二度と繰り返さないように常に心掛けなければならない。
そして、ロシアと日本、いや全世界が協力し合い、世界平和に努めて欲しい。
岩本 健
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