東人の新居浜生活新居浜見聞録 Part 9


他人のそら似


 新居浜の市内で、以前の千葉の職場に居た人らしき人を見かけることが良くあった。その人が新居浜に住んでいる訳でもなく、見かけた時にこちらが注視しても何ら反応を示さず、別人と思うが、非常に良く似ている。
 その後、その千葉に居た人も新居浜に転勤になったと伝え聞くが、まだ本人とは会った事はない。
 
 先日、妻が娘を連れて西条にバイオリンのレッスンに出かけた。その日は、普段のレッスン会場の西条文化会館では無く、少し遠い所であった。
 レッスンの帰りに西条の駅まで行くのにタクシーに乗った。
 妻は「西条駅まで」と言ったらしいが、タクシーの運転手は「玉津団地までですね。」と確認したらしく、タクシーは玉津団地に到着した。
 タクシーを降りようとしたら、西条駅とは全然違うところで、驚いたそうだ。 同じタクシーに乗って西条駅まで向かった。
 タクシー運転手の話では、いつもタクシーを使っている人と妻がそっくりであったそうだ。その人と間違えて「玉津団地までですね。」と確認したらしいが、玉津団地という名前も知らない妻は聞き流していたようだ。
 玉津団地に着いたとき、その団地に居た男の子が車の中の妻に向かって手を振っていたのを娘も見ていた。 よぽど似ていたのだろう。
 やや遅れて西条駅に着き、新居浜までのバスを待っていたが、その日に限り新居浜行きのバスが別の所に停まっていたという。
 そのため、新居浜行きのバスにも乗れず、タクシーで帰ってきた。
 散々な日であったとぼやいていた。  
 


黄鉄鉱


 ある土曜日、娘と風呂に入ったときにその日に放映された「大草原の小さな家」が面白かったと話していた。
 金を採った話であるが、金だと思っていたのが金に似た石であったという話らしい。
 その金に似た石は黄鉄鉱ではないか、と娘に教えた。  すると、娘は黄鉄鉱を見たいと言った。
 
 そこで、翌日の日曜日にマイントピア別子に連れていった。 確か、黄鉄鉱も展示されていたはずである。
 普段、鉱石が展示されている場所には別の企画の展示があり、黄鉄鉱は飾られていなかった。
 しかし、売店には黄鉄鉱の鉱石が置かれていて、金色の鉱石が確認できた。
 
 マイントピアの売店の中にガラス細工をしているところがある。 これから細工を始めるというので、家族で見ていた。
 数種類の色ガラスを使って、10mmほどの鳥の形ができあがった。
 その後、ガラス細工の職人さんは作った鳥のガラス細工を娘にくれた。
 
 黄鉄鉱が見たいと思えばすぐに見に行け、ついでにプレゼントももらえて、新居浜は便利なところである。  
 


通信簿

 
 娘も小学校に入り、期末には通信簿をもらってくる。小学1年生の通信簿は3段階評価になっていた。
 惣開小学校の通信簿は「王子が丘の子ども」という題名がついていた。
 昔の通信簿には、このような学校独自のタイトルなど無かったように記憶している。
 市内の他の小学校はどうなっているか知らないが、惣開小学校では、このような通信簿が使われている。  
 

 

魚屋

 
 新居浜には海が近くに在るがスーパーマーケットで買う魚には、美味しいと感じることは少なかった。
 
 新居浜に住んでいる人も、美味しい魚を食べたい時は今治の方に出向くらしい。
 今治付近では、来島海峡の激しい海流の中で採れた身の引き締まった魚が多く採れる。今治の近くの大島の民宿に泊まったり、今治市内の魚料理の店に出向いたりしているようだ。
 
 社宅の辺りに魚を売って回っている業者があった。
 「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。さかな、さかなはどうでしょうか?。色々あります。」と呼びかけていた。
 
 当家はしばらくの間は、この呼び声に無関心であったが、近所の人から、この魚屋さんは今治の魚を売っていると聞き、購入した。
 
 確かに、新鮮な魚を売っていた。氷の上で生きている魚もあったらしい。
 魚料理の知識の乏しい妻にも親切丁寧に料理の仕方を教えてくれる。
 鯛などは、刺身にし、焼き物にして、最後に鍋物として使える。
 この魚屋さんのおかげで当家の献立には魚料理が多くなった。


世界連邦

 
 新居浜の新居浜市民文化センター近くにこの看板がたてられている。
 「世界連邦を2000年に」
 平和を希求することは万人の望みであるが、その実現策としての世界連邦の設立の動きについては、最近聞いたことがない。
 世界平和の理想的な形態であることは判るが、2000年になった今、実現の可能性が小さく、この看板に虚しさをも感じる。
 
 新居浜市は、平和都市、安全都市、核兵器廃絶都市、健康都市などの宣言をしているらしい。
 平和宣言都市を維持していくためにも、この看板は見直した方が良いのでは無いだろうか?。
 世界連邦の実現目標を先延ばしにしても構わないと思う。
 目標を見直し、それに向かって計画を修正すれば良い。
 
 2001年になっても、この看板がこのままでいることの無いことを望んでいる。

 
 2000年になってからも暫くは、この看板はこのままであった。
 2000年の12月に、看板が修正されているのに気がついた。
 関係者が本ホームページを見て、修正することになったのだろうか?。

 2050年まで先延ばしということだが、50年後の世界はどのようになっているのだろうか?。
 
 2050年になる以前に、世界平和を維持するための何らかの形が形成されることを望む。
 

(2003/03/20)
新居浜市は昭和32年に平和都市宣言を議決している。
平和都市宣言    (昭和32年12月20日議決)


 われわれは、全世界の恒久平和と全人類の繁栄を念願し、世界連邦建設の趣旨に賛同する。
 新居浜市は、平和を愛する総ての都市と共に、永久の平和都市である。
 右宣言する。

 この当時には、世界平和の構築に世界連邦による実現が目指されていた。
 その後の世界情勢は、この理想から外れた形で進展した。
 世界連邦を国連と読み替えても、その国連による国際協調を基本とする秩序が壊れ、好戦的な大国が侵略戦争を開始した。
 世界の人々は、原点に戻って、国際平和のしくみを考え直すべきでは無いだろうか?。


障子の張り替え


 年末のある時、テレビで障子の張り替えの解説の放送があった。
 妻はこの番組をみろという。  番組では障子の張り替えのコツを説明していた。
 
 その後、妻が年末に障子の張り替えをしたいと言い出した。
 確かに当家の障子は、娘が小さいときに破っては部分的に修理を繰り返していて見栄えは悪い。
 しかし、障子の張り替えなど、今までしたことがない。
 昔のかすかな記憶で、障子の張り替えのために障子を亀の子たわしで擦っていたのを見た記憶があった。
 妻は障子の張り替えをしたことも、見たこともない。テレビを見て簡単にできるように思ったようだ。
 
 ホームセンターで張り替え用の障子と糊を買ってきた。
 当家の障子は、全部で18枚ある。
 手始めに、8枚の障子を外に出し、水をかけて古い紙を剥がした。 そして、しばらく乾燥させた。
 乾いてから家の中に入れて障子貼りが始まった。
 このような珍しいことに無関心では居られない当家の娘である。
 障子を剥がしたり貼ったりの作業をやりたがる。本人は手伝っているつもりなのだが・・・。
 
 買っていた糊が足りなくなり、途中で買いに行ったりもした。
 前日には沢山の糊が置いてあったが、それが無くなっていた。どこの家でも障子貼りをしているのだろう。遠くの店まで行って糊を入手した。
  
 やっとのことで、8枚張り終えた。
 
 次の日、外出から帰ると玄関の障子の2枚が張り替えられていた。
 妻と娘、いや、殆どの作業を娘がやったらしい。
 前日の張り替え作業を見ていて、手順を覚えていたようだ。
 妻はこの2枚の張り替えに関わったが、どんなに大変なことか分かったようだ。
 
 その次の日、残りの内の4枚の張り替えをした。
 3日間で14枚の障子を張り替え、綺麗になった。
 
 さて、この障子を最初に破るのは誰だろう?・・・と思っていたら、正月の6日に第一号が発生した。
 やはり妻であった。掃除中に肘が当たって破いたそうだ。
 自分以外の者が破ったら大騒ぎをしていたであろうが、自分が破ったので静かにしている妻であった。


1999年/2000年のイルミネーション


 1999年の年末から2000年にかけて、木々をイルミネーションで飾るところが増えている。
 金栄小学校のイルミネーション は年末年始の恒例行事になっている。
 また、マイントピア別子新居浜中央公園でもイルミネーションでライトアップされている。


 マイントピア別子のイルミネーション  


 新居浜中央公園のイルミネーション  

 
 
 今年は、産業道路沿いの磯浦町にある住友建設四国支店でも、庭木がイルミネーションで飾られていた。
 住友建設のイルミネーションは今回初めてのことである。
 木々には白色のランプが灯されているが、入口付近には赤いランプが点滅している。
 良く見ると、この赤い点滅のランプは、工事現場で使うチューブ型の点滅信号のようだ。゛
 建設会社らしいイルミネーションである。
 
 
 


プロペラ機

 
 所用が有り、鹿児島まで出かけることとなった。愛媛から鹿児島までのルートは?。
 やはり航空機で行くことが最短の時間であるが、今回は日本エアコミュータの小さい飛行機で行くことになった。
 松山空港から乗ったが、飛行機までは歩いて行き、タラップを登って搭乗する。 座席は36席のSAABというプロペラ機。
 プロペラが回り、離陸した。
 考えてみれば、プロペラ飛行機に乗るのは初めてであった。 小さいプロペラに見えたが、この回転により飛行機は飛び立ち、目的の鹿児島空港に着いた。
 
 
 帰りは、松山までの便は早朝の便のみであるため、岡山空港経由で帰ることを考えた。
 しかし、当日のその便は満席のため、広島西飛行場を経由し、新幹線と在来線を乗り継いで行くことになった。
 
 鹿児島−岡山の便が満席であったのは、新幹線のトンネルの崩落の問題のためかもしれない。
 広島西飛行場は、広島の街中にある飛行場で、昔の広島空港であったらしい。現在は別の所に広島空港ができている。
 広島西飛行場に着くと、空港内には多くのセスナ機が駐機していた。 今ではプロペラ機専用の空港になっているようだ。

  
 
 
 


複合商業施設


  大手スーパー「ジャスコ」の発表では、新居浜市前田町のリーガロイヤルホテル南側遊休地に構想している複合商業施設の内容は、以下のようになるという。
 
 総店舗面積:4万平方メートル
 
 駐車場を含めた総床面積:8万3884平方メートル
 
 
  核施設   構成   面積
   スーパー    ジャスコ    1万6995平方メートル
   大型専門店  ホームセンター
 スポーツ用品店
 大型がん具店
   1万1465平方メートル
  専門店街        7988平方メートル

 その他、7映画館のシネマコンプレックスやアミューズメントストア、観覧車なども併設され、2000年11月のオープンを目指しているとのこと。

 
 前田町というこの地域は、昔は多数の社宅の建っていた所であった。
 リーガロイヤルホテルが出来たときに、多くの社宅が取り壊されたようだが、まだ社宅は少し残っている。
 残った社宅も近々取り壊されることになるらしい。
  
 新居浜にも色々と新しい物ができてくるようだが、それと同時に、消えゆく風景も多くあるようだ。

 

(2000/04/27) 新聞によると、2000年4月10日に、四国通産局の大規模小売店舗審議会が、「ジャスコ」と「フジ」の新居浜市内での出店の申請を認めたそうだ。
 「フジ」は、現在の「フジグラン新居浜」に北館と南館を増設する計画とのこと。
 順調に行けばジャスコが2000年11月1日、フジが12月1日に開店するという。
 
 ジャスコ予定地でも、まだ工事は始まっていないが、この地域への道は通行止めになっている。
 
(2000/06/10) 6月8日付の新聞によると、ジャスコのオープンが来年4月まで延期になるという。
 6月から大規模小売店舗法が大規模小売店舗立地法にかわり、生活環境保全についての手続きが必要になったそうだ。
 
 しかし、立ち退いた社宅の取り壊しが一部始まっていた。
 
 2001年05月16日付けの新聞で、ジャスコの概要が報じられた。
 オープンは6月の末の予定で、センターは鉄筋コンクリート造り4階建て、延べ約10万1400平方メートルで、店舗面積は約4万2000平方メートル。ショッピングセンターとして四国で三番目の規模となるそうだ。
 子供向け商品を専門に販売する「キッズワールド」のスペースは西日本一の規模になるという。
 同時オープンを目指していた映画館のシネマコンプレックスは契約の問題などから、秋以降になる見通しとのこと。
 
 ジャスコのオープンを前にして、新聞のチラシ広告には、ショッピングセンターに出店する店の求人広告を目にするようになった。
 
ショッピングセンターに入る店の求人広告より。


 
 ショッピングセンターは正式には「イオン新居浜ショッピングセンター」といい、6月30日にオープンすることが発表された。
 5月頃から、新居浜市内や市外近郊でショッピングセンターまでの案内板がいたる所に設けられ始めた。
 正式なオープンは6月30日であるが、オープン前の3日間はショッピングセンター周辺の人や福祉関係者などへの招待セールがあると報じられた。
 当家もショッピングセンターに近いので招待されるかと思っていたが、郵便受けに「特別ご招待会」が6月27日〜29日に開催されることの案内が入っていた。
 招待の案内はショッピングセンターの近くの家庭に配られたものかと思っていたが、西条に住む人にも案内が来ていたことを知った。
 ここまで広範に招待しているのなら、本当のオープンは6月27日ではないだろうか?。

 ショッピングセンターでは、27日をソフトオープン、30日をグランドオープンと呼んでいるそうだ。


隣人


 社宅に住んでいると、近所の人が転勤して出ていったり、余所から来たりの入れ替わりが頻繁に起こる。
 今まで隣の家に住んでいた人が転勤となった。
 その後、その家の改修工事が行われた。 そして、新しい人が入居した。
 家族の構成は、小学生1年生の女の子一人のいる家族であり、当家とそっくりであった。その子が惣開小学校に転校し、娘と同じクラスとなった。
 
 隣の家の間取りは当家と全く同じである。
 隣の奥さんが当家に来て、部屋をどのように使っているか見て、感心して帰っていった。その後、隣の家では当家の様子を参考にして、部屋の配置をしたらしい。
 隣の家でも、当家の娘の学習机の置き方と全く同じ位置に学習机が置いてあるらしい。
 
 その隣人も関東から来た人であった。
 新居浜でブルドックソースやおでんの「ちくわぶ」が無いことを嘆いていた。
 隣の家族も東人一家と同じような経験をしていくのだろう。