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1904-05
当時の戦争紹介の様子

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すべての写真は 1904年に出版された戦争雑誌"征露圖會(せいろずえ)"より参照
また、この歴史的資料はキャクノ スミヒロ氏の提供による

 

  

 戦勝国日本はロシアに極東領土拡大政策を放棄させた。この軍事抗争は近代アジアが西洋の軍事力を圧倒する力を示した最初の出来事である。

 日露戦争はロシア−日本間の朝鮮国および満州国の支配に対する競争に端を発した。1898年、ロシアは中国に対し南満州国、遼東半島の先端にある軍事戦略拠点、アーサー港(現、旅順)の賃貸借契約を強要。それにより、ロシアは遼東半島の占領に踏み切った。他のヨーロッパ諸国の協力も及ばず、その事件で日本は日清戦争(1894−95)により中国に決定的な勝利を収め手に入れた権利の放棄を強いられることとなる。さらに、1896年、ロシアは日本に対抗するため中国と同盟を締結。また、その過程においてシベリア鉄道を満州を通りウラジオストック港まで延長する権利を手に入れた。このように、ロシアは満州への重要な経路を確保していったのである。

  ロシアはシベリア鉄道を建設(1891−1904)したにもかかわらず、満州の限られた兵力に十分な人員と物資を増強するための輸送機関がいまだ不足していた。対照的に日本は1894年の中国との戦争以降、徐々に軍備を拡大、1904年までに極東の陸上歩兵部隊数においてロシアより絶対的優位に立っていた。1903年、ロシアが満州における歩兵部隊撤退の協定を破棄すると、日本はロシア攻撃を決定。1904年2月8日、日本主力艦隊が驚異的な攻撃を開始し、アーサー港にてロシア海軍の艦隊を包囲したことにより戦争が勃発した。3月、日本軍は朝鮮に上陸、迅速に陥落させた。5月、別部隊が遼東半島へ侵攻、5月26日、アーサー港の要塞を満州のロシア兵主力部隊から孤立させる。日本軍は北へ侵攻し、ロシア兵は復県(6月14日)および遼陽(8月25日)での敗退の後、奉天(現、瀋陽)へ退却した。10月、シベリア鉄道を通した軍備強化の後押しを得て攻撃に転じたが、単に軍事指導力における決断力不足を露呈したにすぎなかった。

日本軍は幾度も多大な犠牲を払った通常攻撃に失敗した後、アーサー港を長期に渡る包囲攻撃をすべく攻撃を控えていた。一方、無能と汚職に満ちたガリソンの指揮系統はまったく機能しておらず、1905年1月2日、アーサー港司令官は、ガリソンに相談もなく、3ヶ月分の食料と充分な弾薬が要塞に残されていながら日本に港を明け渡した。

地上戦の最終決戦は、1905年の2月下旬から3月上旬、満州にてロシア側33万と日本側27万の間で交わされた。長期の執拗な戦闘で両軍ともに多くの負傷者を出した後、ロシア軍司令官A.N.クロパトキン将軍は戦闘を停止し、兵を満州から北へ撤退。満州は日本軍の手に落ちた。この戦闘における被害は極めて大きく、負傷者はロシア兵約8万9千人、日本兵約7万1千人に及んだ。

対馬海戦において日本軍はついにこの戦争に主導権をにぎった。日本は、独立運動を行っている島々の海域における完全支配権を確保、アーサー港およびウラジオストックの小艦隊は小康を保っていたが、1905年5月27日から29日かけて、東郷平八郎海軍総司令官率いる日本艦隊はZ.P.ロシェストベンスキー海軍総司令官率いるロシアのバルト艦隊を対馬海峡にて撃破、1904年10月、ウラジオストックへ到達するための拠点であったアーサー港の軍備を解除するため、バルト海のリエパヤ港から来たすべての船を入航させる。日本はこのころから財政危機に陥るが、対馬海戦での決定的な勝利は、ロシアに広まりつつある内政不安と重なり、戦争に対する国民の支持を得ることができなかったロシア政府を講和へと導いた。

セオドア・ルーズベルト合衆国大統領はポーツマスで開かれた講和会議(1905年8月9日から9月5日)の調停者となった。ポーツマス条約において、日本は遼東半島(アーサー港を含む)、アーサー港へ延びる南満州鉄道、そして樺太島の半分の支配権を拡大した。

ロシアは中国に返還された南満州からの撤退と日本の朝鮮支配に合意。2ヶ月に渡る講和の調印の間に起きた革命により、ロシア皇帝ニコライII 世は憲章に相当する「10月宣言」の頒布を余儀なくされる。

出典:ブリタニカ オンライン「日露戦争」

<http://www.eb.com:180/cgi-bin/g?DocF=micro/514/39.html>

[Accessed 10 December 1998].

 

 


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