必殺、読書人!!

 

112:自然哲学
 




   「環境哲学への招待」  西川富雄
 

 自然と人間との根源的つながりを問うている本です。最近では環境問題をテーマとする本が増えてきましたが、“環境とは何か”ということを根本から問題としている本はそう多くはありません。この本の題名に「環境倫理」ではなく「環境哲学」という言葉が来ているのはそのためです。環境倫理は「環境」についての一定の理解を前提とし、そこから環境に関する善と悪とを問い掛けます。しかし、「環境」が一体何であるのかはなかなか答えられそうで答えられる問題ではありません。それは「環境」という概念を徹底的に突き詰めていくと、人間と自然との存在のあり方そのものについて考えなくてはいけなくなるからです。

 この本には縦軸と横軸とがあります。横軸では現代進行している環境問題を取り上げ、その問題点を浮き彫りにしています。環境ホルモンやゴミの問題などが挙げられ、その深刻さが議論されています。しかし、これだけなら他の環境本でも良く見られることですし、西川先生よりも専門的にその問題を論じることのできる人は数多くいるでしょう。シェリングを中心に西洋哲学を研究されてきた西川先生の本領が発揮されているのは、これらの問題を具体的に取り上げつつ、それを横軸として縦軸に哲学及び哲学史的な観点から近代について問い直しているところです。

 近代とは実証主義の時代です。そこでは人間が自然の外側に立ち、それを数量化しつつ、断片的な因果関係に解体し支配しようとした時代です。最近、ポストモダンなど近代を越えようとする思想が多くでていますが、このような近代の本質をきちんと押さえて書かれている本は案外少ないものです。西川先生はこの近代精神によって進んでいった歴史の過程を神を喪失していく過程と捉え、人文主義としてのヒューマニズムならぬ、人間が自然の支配者となる「勝手な人間中心主義」が広がっていった時代だと指摘しています。近代の科学者の多くはコペルニクスにしてもニュートンにしても何らかの神学的ともいえる動機付けに基づいて近代科学を推し進めてきました。しかし、結果としてそこに生み出された世界は神を最初の創造の瞬間にしか必要としない理神論の世界です。西川先生は、これを自然が神を必要とせずに自らの法則に従って数学的に普遍法則によって説明される状況であるとしています。自然は完全な神が創造した完全な機械であるが故に、一度稼動し始めれば自動的に動き続けるというわけです。これは神が自然から乖離して行く状況と見ることができるのですが、逆に神の立場に人間が立っていく過程とも見ることが出来るでしょう。神から切り離された自然は一定の法則にしたがって受動的に動いている世界です。つまり、近代の自然観は神を失うことによってその受動的側面のみが浮き彫りにされてくるわけですが、もはや神がいなくなった以上、その神の立場に人間が立つことになるのです。近代において科学と共に技術の発展には目覚しいものがありますが、この技術とは断片化された因果関係を通して人間が自然を支配する能力であるといえるでしょう。

 よく日本ではこのような西洋近代のあり方を示しながら西洋哲学全体を否定的に捉えるケースがあります。確かにデカルトは物質と精神とを分けることによってこのような近代化の傾向を強めましたし、もともと西洋思想には<実体−属性>の図式に基づいて物事を過度に分析的に捉える傾向があります。しかし、近代西洋思想の多くは、神が失われる時代にあって、どうやってその弊害を乗り越えようと苦悶したところから生まれて来ているのも確かです。西川先生はシェリングをはじめとしてニーチェやベルクソンなど多くの思想家に言及しつつ、近代の問い直しをしているといえるでしょう。

実は、私も以前よりこの観点からフィヒテとヘーゲルとの関係が気になっていました。彼は敢えて実在論を否定する立場、つまり客観的な対象は意識を通してしか存在しないという立場を取りながら、自我に対して世界を非我として定立し、それを支配することによって人間は生きているのだという哲学を立てました。一見すると、自然を支配しようとする近代精神が最も典型的に表れている思想ではあるのですが、フィヒテがこの思想を実践的倫理観から打ち立てたのであり、特に後期フィヒテの思想では、実践的倫理を求める内的なもの、自己の内奥にある神ともいえる存在を問うています。しかし、この思想は後にヘーゲルから「悪無限」として批判されます。つまり、いくら神的ともいえる内的実践的精神に基づいたものであっても、自我と非我との対立関係が続く限り問題は永遠に解決されないのではないかというわけです。ヘーゲルは自ら「真無限」という考えを提示するのですが、私はこの「真無限」の考えを敢えてヘーゲルが提示した理由が分りませんでした。けれども、この本の中でシェリングの哲学について次のように語られているのを読んで少しこの謎が解けたような気がしています。

それ [シェリングの哲学] がフィヒテの「自我」哲学を豊かに補完するものと期待された。けだし「自然」は「自我」を生み、育むものと位置づけられた。「自我」― 精神・人間 ― が、その中に生まれ、育まれるものとしての「自然」は、それみずからがみずからを形成していく全体として捉えられた。その自然哲学は、ヘーゲルや ― ただし、ヘーゲルでは、「自然」 は「精神」の疎外態であるが ― さらにエンゲルスにも継承された。 (35P)

フィヒテの場合はただ目の前にある現実のみを非我とし、それを克服しようとします。しかし、それは常に全体から切り離された断片的な努力に過ぎません。近代の技術がそうであるように、それは部分的な解決を積み重ねていくだけなのです。ヘーゲルはカントやフィヒテに見られた内面的な精神を尊いものとしながらも、断片的な自然への働きかけの限界を察知し、全体を捉える視点が必要であるとしたのではないでしょうか。ヘーゲルに至って、不完全ながらも自己と他者とを包摂する環境(Umwelt 独 / 本来は「まわりの世界」という意味)の発想が出てきたような気がします。いずれにしても、神が失われて行く時代にあって、いかに哲学者たちが神的なものを保持しつつ近代の弊害を乗り越えようとしたかをここに見ることができるのではないかと思います。

 西川先生はこの環境(Umwelt)が人間を生み出し、育むものとして、人間と自然との連続性の観点から現在の環境問題を解き明かしています。人間自身も自然の一部です。近代的精神が前提とするように完全にその外部に立つことはできません。結果として、環境破壊は人間自身にも及んでいくことになります。最近、環境ホルモンの問題や食の安全性が問われるようになりましたが、ここでは人間も他の自然環境と同じように大きな危険に晒されています。また、経済学的に見ればマルクスが指摘した労働疎外の現状は今も変わっていません。近代的市場経済の下では、労働もお金を通して数量化される対象なのであり、技術によって支配される側にあるのです。

 このような中で人間は本来あるべき場所を見失っているといえるでしょう。西川先生はもともと人が「棲まいする処としてのオイコス」があるべきなのだと説いています。しかし、それは自然を離れてあるのではなく、自然と人間とのつながりの中で見い出されるべきものです。その上で、この本の中では自然と人間との関係から宗教の問題についても語られます。自然が自らを形づくっていく「自然の造営の働き」、この中に特定の宗派にとらわれない本来あるべき宗教的感覚があるのではないかという主張には説得力があります。「環境哲学への招待」という書名にあるように、この本では環境をテーマにあらゆる事柄に言及がなされています。

 最後になりますが、私が地域通貨の運動に関わっているので、少し経済の観点からコメントをしておきたいと思います。当然、この本にも経済についての言及があり、西川先生本人ではないのですが、対談の中で地域通貨のことも紹介されています。これらの部分を読んで感心したのは、西川先生を含めて対談などでこの本に登場する方々が、現在の社会科学、特に経済学の弱点をよく理解しているということです。自然科学の場合、細分化すればするほどより精密になります。しかし、社会科学の場合、事情は逆です。社会の事柄は相互に密接に連関しているので、むしろ自らの研究分野をより高い立場から反省し、他の分野と連携を図る必要があります。しかし、近代経済学においてはこのような反省的思考は全くなされていませんでした。それは全体知を求める哲学をこれらの諸科学が無視してきたこと、その一方で哲学そのものが文献学や評論の殻に籠ってしまったことが原因です。ここにも近代的な断片化の影響が見てとれるのですが、この本は学問の見地においても、この近代における断片化を克服しようとするきっかけを与えてくれるのではないかと思います。
 
 

 「オートポイエーシス」 河本英夫  青土社

 恐らく、日本で書かれたオートポイエーシスに関する最も優れた解説書であり、同時にそれについて最も突っ込んだ哲学的考察を加えている本ではないでしょうか。著者の言いまわしはかなり難解でしつこいのですが、それなりの重みを持っている本です。

 この本ではオートポイエーシスと並んで言及される動的平衡系の議論や自己組織論をそれに先立つ理論として紹介すると共に、それらに対するオートポイエーシスの独自性を強調しています。動的平衡系の議論は第一世代、自己組織論は第二世代ということになるのですが、第三世代であるオートポイエーシスはそれらを超えた新しい理論というわけです。この第三世代としてのオートポイエーシスは、まず「入力も出力もない」という表現でその独自性を語ります。「入力も出力もない」わけですから、そこでは内と外との区別は否定されますし、同時に何かを対象そして観察する観察者の立場も相対化されることになります。この観察者の立場の固定化の否定こそ著者が今までの理論とオートポイエーシスとが決定的に異なると考えている点と言えるでしょう。

 オートポイエーシスを一言でいえば「みずからの作動で自己を決定する機械論(209p)」ということになります。この「みずからの作動」がオートポイエーシスのキーワードとも言えるでしょう。これによって世の中に在るものは自己と他者との境界を持続的に決定しつづけ、存在するものとして現れてきます。「作動」は常に他への働きかけですから、世に在るものは常に他者との関わりの中で存在し、同時にその関わりの外にあるものはもはや「在る」とは言えなくなるわけです。「入力も出力もない」というオートポイエーシスの特徴を示す表現が意味するのもこのようなことではないかと思います。

 実は、私はこの本と平行して仏教伝道協会から出ている「仏教聖典」を読んでいたのですが、オートポイエーシスの思想は極めて大乗仏教の思想に近いものを持っています。オートポイエーシスでは独立した固定的な実体は否定されます。とにかく、反復的に作動しつづけることが在るものの存立の条件なのですから、それは必然的に無常ということになります。仏教ではこのような世界の実相を次のように表現しています。

 ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののように永遠不変ではない。うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようであるが、しかも、また、同時にそのまま真実である。うつり変わるままに永遠不変なのである。(仏教聖典 おしえ 2-3-4)

また、引き続いて観察者の立場の固定化については次のように語られます。

 川は人にとっては川に見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては、川とは見えない。だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。(仏教聖典 おしえ 2-3-4)

見るものによって対象の見え方が異なることはよく言われることですが、「オートポイエーシス」の240pではユクスキュルの環境世界の紹介を通じて、人間の立場に固着する問題点を明らかにしています。

 このように、この本では新しいオートポイエーシスの基本的立場を的確に示していますが、その一方、オートポイエーシスが発展途上の思想の故に、いくつかの問題点が見うけられました。仏教に親しんできた私には著者の主張はわかりやすいのですが、従来の思想と対決するあまり、全体として実体を否定する側面を強調しすぎたきらいがあります。仏教では「ある」にこだわる立場を否定しますが、同時に「ない」にこだわる立場も否定します。上の引用は次のように続きます。

 しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。(仏教聖典 おしえ 2-3-4)

 この問題が最も鮮明に出ているのが観察者に関わる部分です。この本ではそれは常に「括弧に入れる」べきものとされていますが、私にはこの「括弧に入れる」だけで十分だとは思われません。なぜなら、「括弧に入れた」としても人は常に観察者として「入力も出力もない」世界の中で自らを作動させ続けなくてはならないからです。「括弧に入れる」というのはフッサール的な表現ですが、私にはこの現象学の態度はどうしても傍観者的態度にしか思えません。「括弧に入れ」ようが入れまいが、人間の知的働きは観察者としての側面を持つのであって、観察することに対する態度決定を常に我々は何らかの形で迫られているからです。話は少しそれますが、現象学を基礎にした多くの論議が評論のレベルを越えて実生活に反映したという話をあまり聞きません。精神分析の世界ではあるのかもしれませんが、現象学の立場から現実の経済の問題や環境問題などにどのような具体的な提言がなされているのでしょうか。現象学は「事物に即する」事をモットーに厳密な学問を目指してきたようですが、私はそのために自らを傍観者としての立場に止めてきたような気がします。無論、「オートポイエーシス」の著者がそのような立場に立っているとは思えないのですが、「括弧に入れる」ことから一歩踏み出て、今までの観察者としての立場を包含する姿勢が求められてるように思います。「入力も出力もない」、つまりは内も外もない世界観をオートポイエーシスは提示しますが、だからと言って観察者がなす内と外との区別の由来が全くシステムそのものにないということは出来ません。「仏教聖典」の示す川の事例のように、水を水と見る人にとっては川はそれなりに実在します。オートポイエーシスの立場を深めれば、特定の観察者の立場を否定するのではなく、それを包含し新たに生かす可能性を提示できるはずです。

 このことは第三世代としてのオートポイエーシスがそれ以前の第一、第二世代のシステム論にいかにかかわるかと言う問題にも絡んできます。

 こうして第二世代、自己言及システムは第一世代とは異なり、きわめて複雑なかたちをしていることがわかる。しかも本来的に非決定論的なシステムである。第二世代システムの内実をつめていくためには、社会、自然、医学を問わず多様な領域での事例研究に多大な労力を払わなければならない。だが、こうした労力を根こそぎ無効にするほど、第三世代、オートポイエーシス・システムにおいて再度根本的な転換が生じる。(147-148p)

確かにオートポイエーシスは根本的な視点の変更を与えますが、それは哲学的なものであって、個々の事例に対する研究を「根こそぎ無効にする」のではなく、むしろそれらにより豊かな意義を与えるものです。仏教は「ない」と「ある」の立場に固執することを否定することによって、現象する世界に新たな意義を与えますが、これと同じように特定の観察者の立場にもより広い観点からの意義づけがなされるべきかと思います。

 また、「入力も出力もない」という立場を貫くならば、論理的な自己言及のパラドクスに対する対応も問題になると思います。この本ではルーマンの議論を通して「観察そのものによってひき起こされたパラドックスは、観察の内部で解きうるものであるし、また観察の内部の問題でしかない(278p)」とされています。しかし、観察という行為も「入力も出力もない」世界につながっている以上、何らかの実践的問題が背後に控えていることもあり得ます。この本の別の個所では「この看板は無視してください」と書かれた看板や「私の言うことは聞くな」という父親の子供に対する発言の例などが掲げられていますが(295-296p)、これらの例にある通りこれらのパラドックスは現実の背景と効果を持っています。ちなみに、ルーマンについて著者は「際限なく言葉を費やして論じれば論じるほど、前方にヘーゲルが待ち構えていることに気づいてしまうはずである(278p)」と書いていますが、ここにまだオートポイエーシスが言及していない歴史を扱う可能性が見えているように思います。というのも、歴史はパラドックスを通じて自らを作動させているからです。この本ではヘーゲルへの言及がほとんどありませんでしたが、歴史のような自己展開する世界を論じるためには不可欠の視点といえるでしょう。

 私はオートポイエーシスを記号過程の立場から捉えています。この本では「作動」を中心に据えることによってその過程には触れられていますが、記号の観点にはああまり触れられていないように思いました。記号は実体ではありません。それは解釈者によって解釈されることによって「在る」のであって、またその故に、「いかに在るか」もその解釈に依存します。確かに世界は「作動」することを通じて現れ出ますが、だからと言って変転きわまりない捉えどころのない無常なものではありません。これは「作動」という言葉の意味を分析してみればわかることです。「作動」とは自己をも含めた何かに対する「働きかけ」を意味しますが、「働きかける」ことは何かを「変化させる」ことを意味します。しかし、何かが「変化した」といえるためには相対的に「変化しない」状態を想定する必要があります。その相対的に「変化しない」状態が記号として他者とかかわりあい、意味を持つわけです。この本ではこの相対的に「変化しない」状態を「反復的に作動しつづける」と表現していますが、それが持つ持続性の意味を捉えているようには思われません。

 この意味で従来の構造主義の立場がオートポイエーシスに与える貢献は大きいかと思います。構造主義もオートポイエーシス同様、固定的な実体を否定する点は同じなのですが、こちらは差異性にのみ着目し「作動」のような世界の動的な側面にはあまり言及しません。ただ、差異によって構成された構造を記号と解することによってオートポイエーシスがて提示する世界をより具体的に展開できるのではないでしょうか。

 構造主義についてもそうですが、新しい自然観や世界観を展開する際に多くの共通点がありながら仏教に言及されることが少ないのは残念なことです。ニューサイエンスの悪影響もあるのかも知れませんが、観察者に関わる実在の問題の多くはすでに仏教の中で議論がなされているところです。また、この本ではパースやホワイドヘッドについての言及がありませんでしたが、この点もオートポイエーシスを捉える上で新たな視点を提供するものかと思います。

 このようにいくつかの問題点はあるものの、河本さんの「オートポイエーシス」は発展途上にあるひとつの思想の現場を見せてくれている好著だと感じました。この本では、従来の固定された観察者を前提とする立場を批判的に考察する一方、シェリングなどの古典的な哲学者への言及も豊富です。決して読みやすい本ではありませんが、著者の思索の実感が伝わってくる本です。私はオートポイエーシスを自己組織化論のみならず、複雑系やアフォーダンスなどと同様に新しい科学や学問を生み出す流れの一つとして見ています。いずれそれらは相互に補完し合い、一つの方向性を示すのではないかと考えているのですが、この本はそのための重要な視点を提供しているように思います。
 
 

「知恵の樹」 ウンベルト・マトゥラーナ フランシスコ・バレーラ ちくま学術文庫
 

 この本は生物学の立場から書かれたものですが、自然哲学の書と言っててもよいでしょう。それだけ自然そのもののあり方を示唆してくれる本です。

この本を読んでまず、ドイツ理想主義の哲学、特にフィヒテの哲学に近いものを感じました。彼自身はあまり自然哲学者とは言いにくいのですが、「反省」的方法を用いていること、そして人間の働きとしての事行 (Tatigkeit)を軸に自我と自然との連続性を見出している点に共通したところがあります。ドイツ理想主義哲学ではフィヒテ以降、シェリングの自然哲学を経てヘーゲルの論理学に至るわけですが、この論理学は自然の生き生きとした現実を言葉の中に封じ込めてしまったところがあるので、実際の自然科学にはこの流れは直接には受け継がれなかったとも言えます。この本の思想である「オートポエーシス」がどれだけこの哲学に影響を受けているかは分かりませんが、いずれにしてもようやくかつての哲学者たちがイメージしていたものが科学者たちの研究とリンクしてきた感がします。そのせいでしょうか、この本の中に書かれている内容はすでに私が独自に考えていた自然哲学とかなりシンクロしています。すでにこのホームページで書かれていることとの関連もありますので、この本の内容を私の考えと一緒にトレースしてみます。

 まず、この本では細胞が細胞膜によって仕切られた一定の領域を持つ実体であると同時に機能を持つものとして語られます。この2つは相即してあるのであって、どちらが先というのではなく同時に細胞の存立に不可欠なことです。これは私が「医療と哲学(1)」で提示した「機能体」の概念と対応します。自らを形成し生殖によって種を維持する生物は「機能体」として外部の環境との相互作用の中にあることが語られます。

 次に、その細胞が集まりに秩序を与えるメタ細胞について語られます。このメタ細胞とは神経細胞のことになるのですが、この細胞の出現によって細胞の集まりが一つの世界(多細胞生物)として形成され、新たなレベルでの生物と外界との相互作用が論じられます。

※私の哲学においても「メタ」の概念は非常に重要なのですが、まだ、まとまった著作を書いていないのでここではそれには言及しません。

 人間はこのような神経組織が高度に発達した生物なのですが、この本では更に人間おける内的世界と外的世界との相互作用が行動と認識との関連で語られます。この部分は最も哲学に関わる部分と言えるのですが、ここでは表象説(人間の認識はすでに出来上がった観念を外部から受け入れることによって成立するとする説)と独我論(外部世界は存在せず、認識は人間の内部で作られた夢であるとする説)との両極の考えが退けられます。著者たちが主張するのは我々の内的な意識世界はインプットとしての認識とアウトプットとしての行動によって不可分に結びつけられており、人間は直接的には意識世界で生きているけれどもこの相互作用を通じて外の世界をも生きていると言うことです。

 この考えは私の認識論の立場とも一致します。私は自分の認識論を「多重反映論」と言っているのですが、それは人間の内的世界が世界としての独自性を持つと同時に、外からの刺激と外への働きかけを通じて外部世界とシンクロし反映するとするものです。よく言われるマクロコスモスとミクロコスモスとの喩えのとおり、人間の内的世界(最近は「脳」として語られることも多いですが)はそれ自身一つの宇宙なのです。

 さて、この本はここから更に進んで、このような生物の諸個体からなる社会的システムへ話を移していきます。ここで問題になるのはそれぞれの個体がいかにして互いにコミュニケーションしているかということなのですが、筆者たちは「社会的カップリングにおいて生ずる行動をコミュニケーション的と呼び、その結果としてぼくらが観察する行動の調整のこと(230p)」だと規定します。ここで重要なのは、コミュニケーションによってやりとりされるあらかじめ特定の意味を背負った情報は存在しないということです。コミュニケートされるものの意味は受け取る側の事情によって決定されるのであり、その意味は受け取った側の行動(私の言葉で言えば「変化」)そのものということになります。

※このことについては「環境ホルモンと疎外の論理」の【第1回】【第2回】を参照してみてください。

 このようにこの本では生物の広がりをトレースしていくのですが、最後に人間の言語や社会について話が及びます。ここで私が注目するのは「文化」の概念です。私たちは言語を通じてのコミュニケーションにより個人的に得た知識や経験を他人や更には後の人々に伝え残すことが出来ます。このようにして蓄積された人の生き方の体系が「文化」とも言えるのでしょうが、これは「文化と文明とについて(1)」で述べた文化の定義と近いものです。

 私自身は最近この本を読んだのですが、それまで「オートポエイシス」の思想についてはほとんど知りませんでした。にもかかわらず、似たような発想をしているので驚いている次第です。この思想を一言でまとめれば、「自らを形成し秩序を生み出しながら多様に広がる生物の原理」と言えるでしょう。その原理は私が目指す自然と社会との共通の原理でもあるのです。

 ところで、この本の思想はアジェンデによる恐怖政治下のチリで育まれたそうです。そのためにこの本の中で述べられている人々の先入観やそれによる独断にたいする批判には強烈なリアリティがあります。ドイツ理想主義の哲学者たちもこの独断的な考えを強く否定しましたが、約200年の後スペイン語圏で同じような思想が語られたことに何か歴史の因縁を感じます。
 
 

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