「動物化するポストモダン」 東浩紀 著
 

  (はじめに)

 日本のオタク系文化に対して真摯に学問的態度で臨んだ本です。今までオタク系文化が日本社会のみならず世界的にも一定の影響力を持つようになったにもかかわらず、オタク系文化そのものに対してアカデミズムの立場から学問的な分析を志す研究は思ったほど多くありませんでした。この本はそのような状況に一石を投じるものですが、まさにアカデミズムが新しい分野に初めて踏み込んだために、この本の中には多くの未消化の外来思想、またそれに伴う概念の混乱が残っているように思われます。私自身、アニメに関して哲学的な考察を重ねてきた者として、この本の紹介をするとともに、コメントを加えることにします。
 

*データーベースモデルに見るオタクの位相

 この本の最大のポイントは、今まで外部にある何らかの規範に個人が合わせて自分の求めるものを得てきたのに対し、ポストモダンと呼ばれる現在では、そのような規範は失われ、自分の嗜好を満たすために各個人が自由に情報を外部から取り出(検索)し、それを操作(アレンジ)することが出来るようになった現状を明らかにしたところです。東さんはこれを「データーベースモデル」と呼んでいますが、これは今の大学生の勉強の仕方にたとえると良く分かるかもしれません。昔の文科系の大学生は古典を精読することによって学習を進めていました。つまりは、古典と呼ばれる本に自分を合わせようと努力することによって勉強をしていたわけです。これに対して、最近の大学生はインターネットを使って情報を検索し、自分たちのレポートを書くことが多くなりました。つまり、個人の必要に応じて研究対象の方が合わせてくれるというわけで、ここではわけの分からない古典という外部の対象に自分を合わせるのとは反対の関係が出来上がっているわけです。東さんは、この古典のように自分が合わせてきた精神的規範を「大きな物語」と呼び、ポストモダンの現在にあってはこのような「物語」は「小さな物語」へと断片化され、「大きな物語」が保持していた精神的規範の統一性は「非物語」の形で失われたと指摘します。これは地動説から天動説へと個人とその外部との関係が逆転したようなものと言っても良いでしょう。もしくは、主人と下僕の関係が逆転したというところでしょうか。いずれにしても、ここに大きな立場の転換が起こり、それに伴い社会的にも多くの変化が起こっているのは確かなようです。

 東さんは、オタク系文化の詳細な分析によって、このことを丹念に論証していきます。私もアニメには多少詳しいのですが、最近のアニメはほとんど知らず、ゲームに至っては全くやったことがないので、この論証の細かさには驚嘆させられるというのが正直のところです。しかし、その反面、対象が限定されすぎており、より広い立場からもっと巨視的に捉えるべきではないかという印象も持ちました。例えば、東さんは「モダン」と「ポストモダン」を区別してその違いを論じる形で議論を進めています。しかし、ここでの「モダン」はついこの十数年前までそれなりに影響力を保っていた社会主義思想の時代の印象を元に語られており、「ポストモダン」はそれ以降のつい数年の状況を指しているに過ぎないように思えます。また、「モダン」を論じるには「モダン」以前も考慮しなくてはなりませんが、この本では私の見た限り、古代や中世に言及した部分は全くありませんでした。確かに江戸時代の文化に言及した部分はあるのですが、これはオタク系文化の現状を分析するためにその中に見られる要素の一つとして語られているに過ぎません。東さんは、このオタク系文化に見られる江戸時代への志向を擬似的なものとしてしか捉えず、日本のオタク系文化は圧倒的なアメリカ的文化への屈折した反動として捉えています。しかしながら、たとえそのような要素があるにせよ、近代の荒波の中で隠れていた長い日本文化の伝統が、近代の後、すなわちポストモダンの時代になって再び芽を出しても何ら不思議ではありません。東さんは近代と近代以前のものが断絶したかのような書き方をしていますが、歴史的なものは何らかのインパクトによって変形されることはあるにせよ、そう簡単にその歴史そのものが失われると考えるのは早計でしょう。現に東さんも後の部分でオタクのスノビズムに触れる時、それを江戸時代の形式主義の延長線上に位置づけています(105p)。私は時々畑仕事をするのですが、地面を30センチほど掘り起こし、今まで生えてきた雑草を根こそぎ取り去っても、3ヶ月もしないうちに似た様な草が生えてきます。多少は今までにない草が生えてきたり、草の相互の勢力関係が変わったりはしますが、基本的には同じような草が生えてきます。オタク系文化の中に見られる江戸趣味が多少擬似的に見えても、そこには過去との連続性があると考える方が妥当でしょう。

 また、この観点から見れば、オリジナルとコピーとの区別が曖昧になったこともそんなに不思議なことではありません。近代以前の世界では物語は語り継がれる間に尾ひれがつき、さまざまなヴァージョンが出来ては消えるという繰り返しの中で、一定の形を獲得してきました。確かに意図的に選定されて作られた聖書のような物語もありますが、これも以前からの物語を他者との対抗関係の中で一定の形に纏め上げたというのが真相です。実際、ユダヤ人の聖典としての旧約聖書も当時台頭してきたナザレ派(つまりはキリスト教)との対抗関係の中で一定の形に整えられてきたものでした。また、空想的な物語がオタク系文化には氾濫していますが、これも中世にあってはごく普通のことでした。セルバンデスが「ドン・キホーテ」を書いたのは、そんな中世の精神を揶揄することが第一の目的であったことは広く知られています。ポストモダンと呼ばれる文化の傾向はある意味で前近代的な性格を持っていますが、その一方で、それ以前の文化の傾向が復活してきた側面があるともいえるのではないでしょうか。
 

*ポストモダンをめぐる言葉の問題

 このようにこの本で言及される<モダン?ポストモダン>の関係はごく限られた範囲について述べられたものなのですが、外来思想の概念をそのまま適応したために、その議論は非常に分かりにくいものになっています。すでに何度も言及された「物語」の概念にしても、かなり多義的で曖昧な概念のように思われます。これは『大きな物語の凋落』という題で語られた79年のリオタールの著作によるそうですが(179p 注19)、東さんの本の中で語られている「大きな物語」とはかつて「イデオロギー」と呼ばれていたもののように思えます。何故ここで「大きな物語」と言い換える必要があるのか私には分かりません。「物語」と呼ぶ以上、たいていの人は具体的な主人公が冒険や恋愛をする文字通りの「物語り」を連想するでしょう。確かに「物語」には精神的規範として人の生き方に影響を与えるのは確かですが、「物語」という言葉で指し示されるのは近代的な精神的規範というよりはむしろ、聖書などの宗教的物語を直接指すと見るのが自然でしょう。何故なら、近代的な精神的規範は文字通りの「物語り」よりも、イデオロギーとしての理論に支えられて来たからです。確かにプロバガンダとしての多くの美談が捏造されたのは確かですが、より以上に「科学的」とも形容された教義そのものが精神的規範となってきたのであり、そのために日本の大学でも戦後一時期この教義を支えるために膨大なエネルギーが費やされたわけです。

 このように「物語」の概念を再検討するためにも、また近代の正体を見極めるためにも、オーギュスト・コントによる人間の精神の歴史における「三段階の法則」を考えておくと分かりやすいと思います。コントは人間の精神的段階を「神学的」「形而上学的」「実証的」の3つに分け、前二者を空想によって世界を説明しようとする精神的規範とし、「実証的」段階を近代が獲得した実効性のある精神的規範としました(註1)。コント自身は必ずしも前二者を近代において無用のものと見做していたわけではありませんでしたが、近代という時代を見れば「実証的」であることが異常なまでに幅を利かせてきたことは間違いないでしょう。デカルトが世界を精神と物質とに分けて以降、物質のみが数的に計測可能であるために、計測の出来るものを実証的に観測し、その相互関係を把握することによって確実に自然を支配しようとする傾向が強まりました(註2)。ここで重んじられるのはかつてのような空想的とされる「物語り」ではなく、対象を事実として客観的に数値化しそれに働きかけようとする「理論」です。それ故、近代とは「大きな物語の時代」というべきよりも、実証主義とそれに基づく理想社会建設への期待がイデオロギーとなり、人々の精神を支配した時代であると私は考えます。

 恐らく「大きな物語」の意味する範囲には聖書などの宗教的物語も含まれるでしょう。しかし、そうなると近代とそれ以前の精神的規範の区別がつかなくなります。宗教的な物語は時として十字軍の遠征などの歴史的事件を引き起こしましたが、本質的に人々の苦悩を実際的な形で解決するものではなく、それに新たな意義付けを与えることにより、人々に苦悩に耐え生きる力を与えてきたものです。今日ではカルト的ともいえる原理主義者たちがさまざまの問題を引き起こしていますが、本質的にこのことには変わりはありません。ただ、近代において実証主義に基づいて自然を支配する能力が高まり、「天上の批判」が「地上の批判」として語られるべきであるという気運が高まったとき、宗教に付随する形で語られてきた「物語」は忘れ去られ、事実のあり様をフィクションを通して記述しようとする近代文学も登場したわけです。東さんも指摘していることですが(81p)、ファンタジーが復活したオタク系文化においても「虚構の写生」によってこの近代的傾向が受け継がれているのは皮肉なことです(註3)
 

*「動物化」という用語は何を指すのか?

 以上「物語」の概念をめぐって、近代とそれ以前の時代との比較からポストモダンを考える必要について語ったのですが、概念の混乱はこの「物語」だけにとどまりません。もっとも問題なのは、スノビズムとの連関で語られ、本の題名にも含まれている「動物化」という概念です。この「動物化」という概念はコジェーヴが解釈するヘーゲルの「動物観」から来ているそうです。私はヘーゲルの「論理学」をテーマに修士論文を書きましたが、この「動物」についてのコジェーヴの解釈は知りませんでした。ただ、ヘーゲルが「自然哲学」において動物的段階を論じていることについては知っていますし、それがデカルト以来の近代西洋人の動物観から来ているのではないかと推測することは出来ます。本書によると(97p)、この「動物」の概念はコジェーヴが戦後アメリカで台頭してきた消費者の姿を言い表すために作った概念だそうです。人間が“与えられた環境を否定する行動”、つまり“自然との闘争”をするのに対し、動物が“つねに自然と調和して生きて”おり、それが“消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会”と相応しているということからいわれるようになったとのことです。しかし、私にはこのようなアメリカの消費者がどうして動物に例えられるのか理解できません。その後の記述によると、アメリカの消費者が「動物的」と呼ばれるのは“そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない”とのことですが、これほど動物を見下した考えもないでしょう。ヘーゲルの人間至上主義的な発想からはありうる考えですが、少しでも現実の動物を知っている人ならば、少なくとも野生動物の世界では“飢えも争いもない”わけではないことを知っていますし、生き残りのために常に“与えられた環境”と“闘争”していることも知っています。確かに動物が“環境”そのものを“哲学”によって変えることはありませんし、動物が人間と比べて単純な自己保存の欲求にしたがっているのも事実ですが、仮にアメリカの消費者を形容するなら、ニーチェのように「畜群」と形容した方が分かりやすいでしょう。

 しかし、ただこれだけなら単なる言い回しの分かり難さの問題ということも出来ます。少なくともオタクたちが、ここでの「動物化」が意味するように、断片化した趣味の対象を単純に追い続けているという限りにおいて、東さんの指摘は正鵠を射ているということは出来ます。けれども、この「動物」の概念が「スノビズム」の対概念として語られると、事情はやや異なってきます。スノビズムとは、“与えられた環境を否定する実質的な理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式”であるとのことです(98p)。これは人間が観念の動物であるために“形式化された価値”を持つことからきているのでしょうが、この本でも書かれているように、本来オタクの行動にはスノビズムの傾向が顕著でした(99p)。ところが、「動物」と「スノビズム」の概念が二者択一を迫るものとして切り離されているために、ポストモダンが「動物化」するといった場合、ポストモダンに内包された「スノビズム」が見えなくなっています。オタクの「動物化」は「スノビズム」による観念の増殖を前提としています。本来、オタクたちが異性に対して持っていた憧れが観念的に純化され、それが現実の対象から独立した憧れとして一人歩きし、より以上の進化を遂げた何らかの人工物に対して『萌え』という言葉が語られているわけです。ここでは対象が記号化し、本来の対象と関係なく独自の記号システムを形成していくという人間の観念にありがちな疎外の過程が見て取れます。しかし、「動物」と「スノビズム」の概念が切り離されたままでポストモダンの「動物化」が語られる場合、この過程は覆い隠され、単に現実の対象に反応する「動物」のイメージだけが残ってしまいます。普通、私たちが「動物的カン」という言葉を使うとき、そこには動物が自分たちの生きる現実の環境に即して自らの能力を高めてきたことを前提にして「カン」という言葉を使っています。しかし、オタクやポストモダンが「動物化」するといった時には、人間が生きる現実の環境ではなく、本来彼ら自身の頭の中から生まれた観念的対象に対する「動物的行動」について述べられているわけで、どうしてもそこに誤解の危険が生じてしまいます。哲学はよく独自の言い回しをしますが、それは哲学が語る内容が複雑で広範囲に及んでいるからです。このようにもともと語ることが困難である学問にあって、誤解を招きやすい言い回し、もしくは「1/2」ではなく「8/16」のような不必要に複雑な表記をすれば、思考はより以上の混乱のために支障をきたしてしまうでしょう。
 

*オタクに見るポストモダンの現実

 このように書くと、私が東さんに対してかなり否定的な態度を取っているように思われるかも知れませんが、決してそうではありません。実は、東さんが「動物化」という言葉で語っている問題はすでに私も含めた何人かの識者によって指摘されつつある問題と重なり合うところがかなり多いといえます。大阪府立大学の森岡正博さんは「無痛文明論」によって、一方的に「痛み」を退け「無痛化」する現代社会に警鐘を鳴らしています。また、私も (現在執筆中ですが)『独在論の誘惑@アニメのこと』の中で自己の観念的世界に閉じこもる人たちの問題を論じています。ここで私が「独在論の誘惑」に陥った人々というのは他者の存在に無関心になり、自己の感覚的快楽を高めることのみを「動物的」 に求める人たちですが、恐らく東さんの描き出すオタクにはそのような傾向が顕著なのではないでしょうか。

ポストモダンの時代には人々は動物化する。そして実際に、この10年間のオタクたちは急速に動物化している。その根拠としては、彼らの文化消費が、大きな物語による意味づけではなく、データーベースから抽出された要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。彼らはもはや、他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わされず、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。(135p)

ここで“動物化する”という動詞を“独在論の誘惑に陥る”という動詞句に変えれば、そのまま私の主張になりますし、“無痛化する”と置き換えても意味は通じるのではないでしょうか。

ポストモダンの時代には人々は [独在論の誘惑に陥る/無痛化する]。そして実際に、この10年間のオタクたちは急速に [独在論の誘惑に陥っている/無痛化している]。その根拠としては、彼らの文化消費が、大きな物語による意味づけではなく、データーベースから抽出された要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。彼らはもはや、他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わされず、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。

私の場合は(年代が高いこともあって)テレビのチャンネルを自由に変えられることをよくたとえとして用いるのですが、東さんの場合はより進んだ形で“データーベースから抽出”という表現を用いています。すでにデーターベースモデルについては言及しましたが、今日において問題なのは、あまりに周囲の環境が個人の要求に応じ過ぎているということです。テレビのチャンネルはもちろんのこと、データーベースに至っては、個人が自由に自分の趣味に合うものを選択し、見たいものだけを見ることが出来ます。つまり、見たくないことからはいくらでも目をそむけることが出来るのですが、逆にこの利便さが個人を質的に同じレベルにとどめているといえないでしょうか。自分の好きなものを自由に手に入れる事が出来れば、自分の欲求を一時的には満たすことが出来るでしょう。しかし、自分そのものを高めることは出来ません。動物は周囲の環境と戦いながらたくましく成長して行きますが、オタクたちはデーターベースを通じて知識の量を増やすことは出来ても、本質的に同じオタクであり続けるわけです。

 このような精神状況は決して望ましいものとはいえませんが、その一方、各個人が他者に働きかけ他者とともに生きることに恐怖を感じても希望を持てない現在の(東さんの言い方ではポストモダンの)社会状況にも問題があるように思えます。かつては物語そのものが他者との架け橋となり、他者とともに生きることに希望を与えてきました。私が押井監督の『パトレイバー劇場版』に触発され『バビロンとローマ』を書いたのも、古代社会において宗教的物語が民族や言葉の壁を越え人々がコミュニケーションをするための精神的基盤を提供してきたのではないかと考えたからです。しかし、現在において事態は逆の方向に進んでいるように思えます。つまり、他者を求める欲求が満たされない潜在的不満を一時的な快楽で誤魔化しながら、本来の欲求が満たされないことによる自己の破綻を限りなく先延ばしにしているのではないでしょうか。この本の中で紹介されている『セイバーマリオネットJ』は、東さんが指摘しているように、このようなオタクたちの現実を見事に寓話化しているようです。また、この本の中で紹介されているオタクの薬物依存的な行動原理もそのことを裏付けているように思えます。以前、公文俊平さんの『情報文明論』における「具身界」の概念を批判した時 [必殺読書人:360] もそうでしたが、現実界と観念の世界である「具身界」とを有効に結びつける通路がなければ、観念の世界が常に現実世界の不満を一時的に解消するためのガス抜きのような役割しか持てないということになるでしょう。

 東さんはこのようなポストモダンの現実に対して、少なくともこの本の中ではあからさまにその危険を指摘するような態度は取っていません。しかし、オタクたちのこの本に対する否定的態度を見ると、感性の鋭いオタクたちが自分たちの運命の没落を予言されたことを内心感じ取っているのではないかと思います。最近見た『アベノ橋魔法商店街』というアニメではオタクの少年が自らの作った観念の世界の中に迷い込み、悲しい出来事が起こっている現実世界との狭間で悩み苦しむ姿が描かれています。この作品では、少年の未来の能力を担保とすることによって強引な形でオチがつけられているのですが、私はこのような中途半端な作品を見るたびに、オチの書き直しをしたい衝動にさいなまれます(註4)。オタクの現実に対する無力感はすでに原罪意識のように彼らの間に浸透しています。しかし、現状では、このようなオタク的な人々が新たな時代を切り開き、自らの経済秩序を打ち立てる気力があるとは期待できません。いずれにせよ、オタクたちはこのままでは現在の経済状況の悪化が進展するとともに、近代の最後に咲いたアダ花としてその姿を消していくでしょう。確かに彼らの文化活動の中には近代以前の伝統を継承するものが存在しています。しかし、虚構の中の出来事を忠実に記述することはあっても、それは永遠に断片のままであり、一つにまとまりながらより以上の広がりを見せることはありません。まさに近代とは、対象を断片化し、その間の因果関係を実証的(定量的)に明らかにすることによって自然を支配し、理想の社会を建設することを夢見た時代であったのですが、その夢敗れた後、近代の残影を抱える者たちは、断片化を志向する近代の精神を最後まで保持しながら、近代の終わりとその運命を共にする危険に晒されているのではないでしょうか。
 

  (おわりに ― 「ポストモダン」の現状を踏まえて)

 このように私は東さんと違って、オタクをポストモダンの存在としてではなく、近代最後の存在と捉えるのですが、そこには次の時代につながる何かがあるかもしれません。種の99%が死に絶えても、そこにほんの僅かの種や根が残っているなら、そこから新しい可能性が生まれてきます。その意味で、この本の最後で紹介されている『YU-NO』というゲームはかなり興味深い作品です。この作品は断片化した世界が複雑に展開することを通じて、「大きな物語」を喪失した「非物語」の絶望を的確に表現しているように思われます。しかし、先の『セイバーマリオネットJ』や私が紹介した『アベノ橋魔法商店街』にしてもそうですが、このように自己の行き詰った状況を的確に浮き彫りにする作品が生まれていることは、逆説的に未来を求める意欲がまだ残っていることを物語っています。恐らく大多数のオタクは近代と共に消え去るでしょうが、その屍の中から新しい芽が生まれるのではないでしょうか。東さんは『YU-NO』の中で複雑に交錯する世界を「超平面的世界」と表現しています。今のところその世界は混乱したまま出口の見えない隘路の中にとどまっています。しかし、それは私たちの意識が近代という外からのイデオロギー(大きな物語)の支配を前提としているからではないでしょうか。非物語の時代においてもはや頼るべき教義は外になく、自らの求める物語は自ら生きていくことを通じて自身のうちに見い出すことしか出来ないのです。私は永遠の彼岸にありながらも常にすべてに偏在し、自己を生かし続ける何かを物語としてその中に取り込んだとき、『YU-NO』に描かれた絶望的にも見える閉塞感の先が見えてくると考えます。これについては私自身が稿を改めて論じることになるでしょう。

 アニメなどのサブカルチャーと言われているものを同じ哲学的観点で考察しようとする立場は東さんにも私にも共通しています。また、押井監督の映画『ビューティフル・ドリーマー』が自己の哲学するあり方に決定的な影響を与えた点でも共通しています。しかし、その後の私の研究の方向は東さんとはかなり違ってきたような気がします。私は一介の地方公務員として生活する傍ら、押井監督のアニメをきっかけに社会学的立場から世界宗教の役割を研究するようになりました。公務員を辞めて後、1999年から2000年にかけて、私はテキサスの片隅で聖書と仏教聖典を外国語で読み続ける毎日を送っていました。東さんはそのころ、ポストモダンと呼ばれる思想の著作を読み、コンピューターゲームの分析をやっていたのではないでしょうか。恐らく、この点がオタクたちの現代をポストモダンと捉えるか、近代の末期と捉えるかの見解の違いを生んでいるのだと私は考えています。真に未来を切り開くためには、過去を深く掘り下げなければなりません。現在のところ、オタクたちは擬似的な形でしか近代以前と触れ合うことが出来ないようですが、オタクがオタクの殻を破るには、もう一度より古いもの、より広いものの中に自ら入り込み、立ち向かっていく勇気が必要となるでしょう。
 

註1 オーギュスト・コントのこの思想は「実証的精神論(岩波文庫)」を通じて日本語でも読むことが出来ます。

註2 近代のこのような性格については、最近 [必殺読書人:112] の西川富雄著「環境哲学への招待」でのコメントで触れています。

註3 東さんはこのことについてこの本で“近代小説が現実を写生しているとするならば、オタク系小説は虚構を写生している(81p)”と述べています。つまり、そこでは事実と虚構の違いがあっても、目に見える人物の描写に終始している点で、近代小説もオタク系小説も近代の枠組みの中にあるといえます。かつて物語が神話であった時代、その描かれる対象は ― たとえ人物を通してであっても ― 神、運命などの人間を超えたものでした。近代以前の物語はこれらのものを描くことにより、世界のあり方・人の生き方を示唆したのですが、近代においては、すべてが人物の世界の中に止まっているのではないのでしょうか。ただ、押井監督の作品は直接描写されない世界を示唆することによって、例外的に人物を超えた語り得ぬ世界を描き出しているように思います。この点については私が書いた『WWF No.25 押井学会 Vol.3』の「物語から現実へ ― 物語世界をめぐる外部と内部についての考察」を参照してください。

註4 事実、私はエヴァンゲリオンのオチを書き直さなくてはなりませんでした。下記URLを参照してください。

   エヴァンゲリオン.episode 25.26 (私案)
     http://www.oct-net.ne.jp/~iwatanrk/eva.htm
 


[アニメのこと]