今治出身の偉人
 重見 周吉について

 男のロマンを実践した今治出身の偉人を紹介します。
 平成12年11月に『漱石の運命を変えた重見 周吉』として、地元新聞紙上等で紹介された重見周吉は、米国エール大学の医学部を卒業して帰国し、東京慈恵医科大学で教鞭を執っていましたが、本場で習得した英語の力を生かそうとして、学習院の英語教員の採用試験を、明治26年に受けました。そのとき、後に明治を代表する文豪の一人として名を成す夏目漱石も同じく学習院の教員を目指していたのです。二人の争いになりましたが、採用試験では重見が採用され、漱石は不採用となり、松山中学の教員として都落ちしました。英文学者を目指していた漱石のショックは大きかったと思いますが、このことで、重見は『漱石の運命を変えた男』として有名になりました。

これが、重見周吉の写真です。

 この写真は、重見の出身校のエール大学が卒業生の動向を25年毎にまとめて出版している本(1915年判)の中にありました。
 同書では、1888年の入学生として、略歴・家族構成等が紹介されています。
 それによると、重見は1865年11月22日に父・八塚茂平と母・重見しげの間に8人兄弟の次男として生まれました。父は今治市の対岸に浮かぶ大島の津倉出身で、重見家へ養子に来た人です。
 京都の同志社大学(当時は同志社英学校)を卒業後、渡米してコネチカット州のニューヘヴンにあるヒルハウス高校を経てエール大学医学部に進みドクターの学位を取り、エール医学会会員に列せられました。明治24年11月に帰国、3年間東京慈恵医科大学で教えていますが、明治26年からは、学習院の教員になりました。

重見周吉の謎

 明治の始めに名門のエール大学を出て、しかも英語の学力においては夏目漱石より優れていた重見は、歴史の谷間に埋もれていましたが、最近の調査で、重見は9年間学習院に勤める傍ら、東京で医院を開業し、63歳の生涯を閉じていることがわかりました。
 エール大学といえば、米国の名門大学で、現在の米国大統領のブッシュや前大統領のクリントンの出身校です。まさに世界を動かす巨人を養成する学校なのです。重見より10年ほど早くエール大学へ留学した山川健次郎(1854〜1931)は重見と同じ理学部に入学、修士号を取得して帰国し、明治14年に東京大学教授となり、後に東京帝国大学、九州帝国大学、京都帝国大学の総長や貴族院議員・枢密院顧問などを歴任しています。当時の社会状況から、もし重見が世間的な名声を望めば山川と同じように歴史にその名を残すことができたのではないかと思われます。どうして彼は山川と同じような道を選ばなかったのか、それは大きな謎ですが、重見を詳しく研究している恒松氏によると、クリスチャンであった重見は病に苦しんでいる人々を救うことに人生の価値を見出し、キリスト教信奉者として生涯を通じて博愛に生きたためであると考えています。

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