悩みと共に(抑うつ 神経症 気分変調 うつ病 摂食障害)

すんだひとみ
澄んだ眸
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死にたい

死の果てに

 まったくどうして人は 「苦しくてどうしようもないときに、死にたくなるのでしょうか」(これさえなければ、尊い命が数多く救えるのに)

 仏教で言うところの「苦」は本来「よりよく生きたい」と言う思い(煩悩)から生まれてくるものです。本来生きるためにあるはず煩悩から生まれた「苦」がどうしてその人を殺すような振る舞いを見せるのか、ちょっと考えただけでは回答はみつかりません。

 しかし、「死を願うこと」が指すものを考えれば、その理由がわかってきます。この場合の「死」とは、肉体が老いたり、病気になったりして生物学的にあるいは、受動的に死ぬことではありません。

 「死を願う」とは「自分が死ぬことを積極的に願うこと」であって、「楽になりたい」「その人自身を今いる環境から消し去りたい。」あるいは、「今までの記憶や考え方や人間関係を全て忘れ去ってしまいたい」と切望することです。
 人がその本人の死を願うことはこのことだけでしょうか?いいえ、人の心はもっと貪欲です。どの宗教でも死の先には、「復活」とか「再生」とか「精神の不滅」とかを必ず説明しているように、死の先には、一度全てを消し去った後に、もう一度生まれ変わって、「新たな人生をやりなおしたい。」と言う強い願望が隠されているのです。

 私も死にたいと思ったことが何度もありました。 私が死にたいと思ったとき、実は、私のまわりの人間とのいやな関係を帳消しにして、もう一回、別の人生を歩みたかったのだと思います。

 人が苦しいとき死を望むのは、「肉体的な死」を望んでいるわけではありません。 精神的な死も少しは望んでいるかもしれないけれど、本当は新たな人生をやりなおしたいと望んでいるのです。
ですから、心が死にたいと思っても、自らの生物的な死を選んではいけません。それは大きな誤解です。
それに、死んだからといって、その先に楽な人生が待っている保証は何処にもありません。生きていれば、私のように「あのとき苦しかったけど、今は気持ちがずいぶん楽だ。」と思う可能性があります。 もし死んでしまったら、その可能性を自らつぶしてしまうことになります。
死を選ぶより、生きている間に精神的な復活を成し遂げるためにどうすれば良いかを考えてみませんか? そうすれば、死にたい苦しみは消えてしまいます。


Michelangelo's The Last Judgement. http://en.wikipedia.org/wiki/ Michelangelo

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