悩みと共に(抑うつ 神経症 気分変調 うつ病 摂食障害)

すんだひとみ
澄んだ眸
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祈り

 「祈り」の独断と偏見に満ちた補足の最後は「愛」です。愛がなければ祈りは成立しないし、それに全ては空しいですから。

 キリスト様は、
「愛は寛容で 愛は慈悲に富む 愛は妬まず、誇らず、高ぶらない 愛は全てを許し 全てを信じ 全てを希望し 全てを耐え忍ぶ」
「自分を愛するように他人を愛しなさい」
と言われたそうです。 確かにそうでありたいと思います。でも、実現できそうもない遠い理想のようにも聞こえます。

 「自分を犠牲にして他人に尽くしなさい」と誤解されやすい言葉だと私は思います。自分を犠牲にすることは本当にそれは他人のためになっているでしょうか?

 「賢者の贈り物」というお話があります。髪の美しい妻のために自分の大切にしている時計を売って髪飾りを買う夫と、夫が大切にしている時計の鎖を買うために自分の髪を売る妻の話です。そのような夫婦が最後に確認できたものは「自分を犠牲にして相手を思いやる愛情」です。しかし、本当の賢者になるにはいくつか欠けたものがあるような気がします。

 極端な例をあげると、「友のために自分の死を選ぶ人」がいたとして、その人は本当に友のためになっているでしょうか? もし、残された友がそのことを気にして、いつもその人の死を思い起こすことになったら、命をかけて守った友達に生きる苦しみを残していくことにはならないでしょうか?

 けれども、「どちらが死を選ぶか」「その後、残った人に何をして欲しいか」をお互いがとことん納得がいくまで話し合い、その会話の中にユーモアを交える余裕があるなら、二人のうちどちらかが死ななければならない極限状態にあっても、残る側にも行く側にも心残りは少ないだろうと私は思うのです。

本当の愛

 私は自分を犠牲にして他人に尽くす愛は、それだけでは二流の愛だと思います。

 本当の愛とは自分も他人も幸せになるもので、それを喜びのうちに実現することだと思います。この一流の愛には大変な努力と能力がいります。自分の気持ちを相手にわかるように相手を傷つけないように伝えなければいけません。相手の気持ちや考えを相手の態度や言葉から正しく受け取る感覚を磨くことも必要です。自分が受け取ったことは相手に適切にフィードバックして確認することも大切です。

 さらに、堅い話を和らげるような話術も必要になります。お互いが持つ能力を全て使って、相手と自分とが対等に交流し合えるだけの土俵を作らないと、お互いの幸せとはどのようなものかを平和に決めることはできません。

 「自分の不幸が相手を不幸にする可能性を考慮する能力」と「自分の思いを相手に告げる勇気」と「ユーモア」です。

 これらのある夫婦、私のイメージで言わせてもらうと「漫才のように会話が弾む関西人の夫婦」だったら、銭がなくても何にも失う物もなく、言いたいことを言い合って、心の通う楽しい家庭が作れるような気がするのです。

 一流の愛とはそのようなものだと私は思うのですが、今の私はなかなかそのようなところまで到達できません。自分や相手に無理や我慢やこだわりがあれば本当の愛からは遠ざかっているからです。それでも、少しづつ近づいていきたいと思います。

思い
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