人は疲れてくるといろんなことがうまくいかなくなります。
10kmマラソンした後で、100mダッシュした時のタイムは、10kmマラソンした前のタイムより早くなることはまずありません。これは、結構当たり前のことととして私たちは受けとめています。
体の問題はすぐ理解できるのですが、心の疲れはあまり気づきません。意識が我慢できるようにあるていどの感情を押さえ込む事ができるからです。
ですから、心が疲れてしまっていても、自分では疲れていることが意識できなくなることが、たまにあります。
仕事が沢山あるときなんかは、少々疲れていても頑張ってしまいます。
ですが、体が思うように動かないのと同様に、頭も思うように動かないものなのに、それをあたかも何でもできるように錯覚してしまうことが多いようです。
困ったものですね。
疲れが溜まっているのに、私は仕事をしました。
ところが、普段なら間違える筈の無いようなところで、間違ってしまいました。
それを誰かに見つけられ、恥ずかしい思いをしました。
そうすると、私は頑張るわけです。
(このへんからだんだんおかしくなっていきます。)
「今度は、同じような過ちは繰返さないようにしよう。」そう思って、今度は普段チェックしないようなささ いなところまで、チェックしはじめます。
そうして出来上がった仕事を見てみると、やっぱり間違っています。
「おかしい、私はどうかしてしまったんじゃないかなあ。あれほど気を付けていたのに、またまちがっていらあ。」
そう思いながら、また、追い立てられて仕事をします。
今度こそ、大丈夫の筈だ、と思っていると、やっぱり、基本的なところで間違っています。
「なんで、こんな基本的なところで間違ってしまったのだろう?」「私は、こんな簡単なこともできなくなってしまったのだろうか?」
ところが、期限は迫っています。仕事ができていないと、みんなに迷惑をかけてしまいます。
当然、誰かが遅れている私の仕事を手伝うことになりました。
「私一人でできる筈なのに。あの人に迷惑かけて申し訳無いなあ。」
「それもこれも私がうまくできないからだ。どうしてできなくちゃったのかなあ。」
「きっとみんな私のことをバカだと思っているに違いない。」
「『年ばっかり食って、使い物になんないじゃん。』『ああ言うふうにはなりたくないよな。』なんて、心の中で思っているのに違いない。」
「人を手配してくれた上司も大変だったに違いない。申し訳無いなあ」
「仕事ができないばっかりに、こんな辛い思いをするんだ。もっとがんばらなくっちゃ。」
等と考えてはいるのですが、仕事はうまく進みません。
考え方が仕事そのものに正しく向けられずに、仕事に関連した他の所に向くようになります。
「だけど、つらいなあ。」
「だけど仕事をきちんとやらなきゃ給料もらっているんだもん。」
「だけど、なぜか失敗してしまう。そう言う失敗をしたくないのに、やっぱりやってしまう。」
「失敗してるとみんなに迷惑をかける。」
「だけど失敗しないようになんてできそうもない。」
「昨日もおとといもみんな失敗したじゃないか。今日も失敗するにちがいない。」
「こんな私が会社に出ていって、何か意味があるのかなあ。」
「仕事ができないと、面白いことなんか何も無いなあ。」
「私の生きている意味なんてどこにも無いんだ。」
「仕事のできないわたしなんて、生きていても仕方が無い。」
なんて、考えるようになります。
とうとう、生きていても仕方がないところまできてしまいました。