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仏教

人生の真理

十二縁起

苦の根本原因(縁起)
 目覚めて人は苦の根本原因について十二縁起にまとめています。私としては今のところ最後に行きつく無明については良く分からないのですが、ひろさちやさんの「仏教入門」という本から転記しました。()内は私のコメントです。
  1. 「老死」
    人間が老いて死ぬのはなぜか? それは人間が生まれてきたからです。老死の原因は「誕生」にあります。
  2. 「生」
    人間が誕生するのはなぜか?それは輪廻転生しているからです。生存が輪廻の世界にあり、動物や草木でなく、たまたま人間としてあるのです。それを「有」といいます。
  3. 「有」
    輪廻の中で転生(流転)しているのはなぜか?それはこの世の中に執着しているからです。それを「取」といいます。
  4. 「取」
    執着があるのはなぜか?欲求があるからです。これを「愛」といいます。
  5. 「愛」
    欲求があるのはなぜか?欲求は必ず対象に対する欲求です。その対象を享受してはじめて欲求は満たされるのです。この対象を受け入れる事を「受」といいます。 があるからです。これを「愛」といいます。
  6. 「受」
    対象を受け入れるにはその対象との接触が前提です。接触によって受容するか否かが決定されるからです。これを「触」といいます。
  7. 「触」
    いわゆる主体と対象の接触の仲立ちをするのは感覚器官です。六感があって、眼耳鼻舌体意といいます。これを「六入」といいます。
  8. 「六入」
    六感の支柱となっている人間と言うのは、精神的な部分と物質的な肉体部分とからなっています。前者を名といい後者を色といい、会わせて「名色」といいます。
  9. 「名色」
    名色が意味する人間存在、自己存在は意識に由来します。我が認識するから我があるのです。これを「識」といいます。
  10. 「識」
    現在の認識は過去の体験や行動の結果形成されたものです。この過去の行為によって形成する力を「行」といいます。
  11. 「行」
    この過去の行為によって形成されているものは何によるのか?それは「無明」によっているのです。(「行」というのは人間がもつ学習能力のことなのかな?過去の情報を一般化したり抽象化したりして解析して、その結果を記憶しておく能力のことを指しているのかな?)
  12. 「無明」
    そして、現実の苦の根本原因はこの「無明」にあるとしたのです。 (無明と言うのは迷いのことなんだろうな。)

以上がひろさちやさんの「仏教入門」という本から転記した内容です。
十二縁起を私なりにまとめると。
 無明という迷いのようなもの、いいかえると、どう生きていいかわからないデータベースが空の状態がまずある。そこに情報を蓄積して行くのは人が持つ学習能力があるからなのだな。その能力があるから過去に自分の周りで起こった事を一般化したり抽象化したりして記憶することができるのだろう。それれが寄り集まって自分の中に色々な知識が蓄えられている。もちろん、単に事象に対する対処方法だけが存在するわけではなくて、自分自身を自分自身として他者と区別するだけの能力を人は持っている。もちろんそれらは、感覚器官を通して得られる知識であって、それ以外ものでは外界と接することができない。さらに、そのような能力があったとしても実際に対象となるものとの接触が無ければあらゆるものは認識できないし、それに執着する事も出来ない。そういった執着があるから人として生きていられるけど、いずれ死なないといけない運命なんだな。
何かわからない呪文のようなものを繋げて考えると以上のようになるけど、要するに人が苦しむのは「どのように生きていったらいいかわからないから苦しむものだ」とまとめていいみたいだなあ。確かにそれはそうだな。あなたの生き方はこうですよと決まっていれば迷う事も何も無いはずだから。


もう一度「苦」に対する考えを見なおしてみよう。
人は物事を強く望まなければ、苦もまた自然になくなってしまうはずだし、真理に近づけばさらに苦は無くなるはずだから。
  1. 「生」よりよく生きたいと思わなければ生きることは苦しくなくなる。迷いが無くなれば、生きていく上での苦しみも減るはずなのだか、迷いを無くすにはどうすればいいのだろう。
  2. 「老」自分が病気になるのは死ぬ運命である延長なのだから仕方が無い。次の世代がより良く生きていくためには私が衰える事が必要なんだ。
  3. 「病」病気になるのは私だけが悪いわけではない。周りの環境の影響だってあるんだしそれは仕方が無いな。諸法無我なんだもの。病気のままでもいいじゃないか。骨が折れていてもいいじゃないか。骨が折れた事を悔やんでも折れた骨がすぐに繋がるわけじゃなし。心の病気にかかっていてもそれを認めて生きていくしかないんだな。
  4. 「死」諸行無常は私にもあてはまる。私が死なないと困る人がいる事も事実だな。
  5. 好きな人と一緒にいなくても自分は自分、相手は相手と考えれば困らないぞ。別に自分が自分でなきゃならない理由なんて何処にも無いんだし分かれなきゃならない理由だって私の考えの及ばないところにあるのだからそれはそれで仕方が無いな。
  6. いやな人が自分悪い事をしても、それは悪い事をする奴が悪いんだからあまり困った事じゃないなあ。
  7. 本当にほしいものなんてあるのだろうか?ほしいものなんていらないや。そう思えばそれがが手に入らなくても苦しくないなあ。
  8. やりたいことができなくても苦しいのは、何かをやろうと思うから苦しいのだろうな。私がやりたいと思う事は本当に私がやりたいことなのかな。そんなにこだわる必要があるのかなあ。
 確かにいろんなことを理解していれば、煩悩に執着する事は減って行くみたいだ。それに、中道をわきまえると、無理に何かを追いかけるようなことはしない。なんとなく世間と折り合いがうまくつけられる気がする。物事がわかってくると、確かに心の静まった状態は近く感じる事はできるようになった。でも、煩悩を滅しきってしまうとやはりそこには何もないなあ。生きている実感がこの感覚にはないけど、素直にまわりのことを受け入れる事ができるような気がする。これが「目覚めた人」の目指す「涅槃」の境地なのかなあ。
 でもやっぱり、生きていくために必要な煩悩はどのように解決していけばいいのだろう。それに、人生に対する迷いも払拭されたわけではないなあ。どうすればいいんだろ。

もう少し、涅槃について考えてみようかなあ

苦からの脱出
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