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仏教

涅槃

 涅槃とは、「吹き消すこと、吹き消された状態」を意味する梵語のニルヴァーナの音写で、煩悩の火が消えた状態を指します。そして、目覚めた人は死んで、極楽浄土に行ったわけではなく、輪廻から外れた涅槃の境地にいると信じられています。 涅槃の世界にいるという事は煩悩が無い状態なので、二度と生まれ変わる事はありません。十二縁起のところでも触れましたが、煩悩は生まれ変わりの原動力があると考えられていました。誤解があるかもしれませんが、輪廻転生の考え方は紀元前BC8世紀〜BC2世紀にかけて盛んだった思想で、仏教独自の考え方ではありません。目覚めた人が布教をはじめた当時からあった思想で、「煩悩は生まれ変わりの原動力である。」といった考え方は仏教以前に既にあった考え方なのです。目覚めた人はその輪廻転生の思想の真っ只中にいたためその思想の中から新たな考え方を生み出していったと考えられます。ここでは涅槃の前に輪廻転生を説明してから涅槃の説明をしたいと思います。
輪廻転生
目覚めた人のいた時代のインドでは、輪廻転生が信じられていました。今でもこの生まれ変わりの世界観を信じている人たちがいることも事実です。
ミャンマーでの生活
ミャンマーでは、人は死後別の新しい体に生まれ変わるが、その人の持つ”業”は前世から引き継がれると信じられています。そしてどういう境遇に生まれるかは、前世で死を迎えたときの”業”の善し悪しで決まるとされます。”業”は、功徳を積めば良くなり、悪徳を積めば悪くなります。これは日本で信じられていることと同じですね。もちろん。死んだ人は人に生まれ変わるわけではなく、ほかのいろいろな世界に生まれ変わるようです。それらを大きく分けると六界(”極楽界”、”人間界”、”阿修羅界”、”餓鬼界”、”畜生界”)と言うらしいのですが、どの世界に生まれ変わるかは、前世の行いの良し悪しにかかっています。

実際、そこで生活している人の考えは 自分が貧しい家に生まれたのは悪い”業”を持っていたからだと考えています。しかしいくら頑張っても不幸な生活から抜け出せないとなると、これは相当ひどい悪業で、前世で人でも殺したのではないかと考えます。そして、自分の業を今そのままにしておくと、来世も不幸な生涯が待っている。何とか来世を良くするため、最高の功徳(全財産を投げ出してパコダと呼ばれる仏塔の製作)をしようと考えるようです。

ミャンマーの人は来世をよくするために現世の生活を豊かにする財産を手放して功徳を積もう(例えばパコダを作ろう)としています。でも、彼は現世を犠牲にしているのでしょうか?物質的な豊かさという面では確かにそうかもしれません。ですが、自分の価値を前世の”業”として受け入れている限り現世の自分の環境に対する迷いはあまりないと思います。また、現世で最大の功徳をすることによって、現世で財産に執着することはなくなります。もちろん、現世では自分のできる限りの功徳をするのですから、多分死ぬことは怖くないでしょう。今私のいる日本での生活では考えられない心の豊かさがあることは確かなようです。
どこかの政治家みたいに私腹を肥やすために賄賂をもらおうという考えは無くなると思うし、生活するのに十分なお金があるのに、業績だのなんだの言いながらお金をもうける必要はなくなります。
しかしながら、この生活もやはり前世や来世や功徳に執着した苦しみのある世界である事に変わりは無いようにも思えます。お金や仕事や地位などに変わる別な価値観が人の生活を支配しているに変わりはありません。
目覚めた人は心の安らぎはそのような何かに執着することで求められないものだと言いたかったみたいです。

目覚めた人の死後の世界の考え方
では、目覚めた人はこの死後の世界をどのように考えていたのでしょうか?
死後の世界と霊魂については目覚めた人はこの事について「有る」とか「無い」とかというような答えはしていません。ただ次のような毒矢の譬えをもって答えています。
目覚めた人の弟子に、マールンクヤープトラがいた。彼はあるときお釈迦さまの説法を聞いて感激し、お釈迦さまの弟子となりました。しかし彼は、どうやら理論家であったようで、哲学的な問題に頭を悩ましていた。たとえば、この宇宙は有限か、無限か? 霊魂と身体は同じものか否か? 人は死後にもなお存するかどうか?といった問題であったようです。
そして、マールンクヤープトラはお釈迦さまのところに行き、これらの問題に答えてほしいと願い出ました。もし答えていただけないようなら、自分は教団を去る、とまで言ったといいます。
そんなマールンクヤープトラに対して、目覚めた人はこのように言いました。
「マールンクヤープトラよ、ここに毒矢で射られた男がいたとする。友人たちは医師を呼んで来て、その毒矢を抜いて手当てをしてもらおうとしている。しかし、本人は「誰がこの矢を射たのか? この矢の毒の成分は何か? この矢を射た弓は、どんな形をしているか?・・・これらの問いに答えられぬうちは、この毒矢を抜いてはならない」など言っている。マールンクヤープトラよ、君はこの男をどう思うかね?」
 「・・・・・・・」
「君の言っていることは、この男と同じなんだよ。そんなことを言っていると、やがて毒が回り、男は死んでしまうだろう。いま大事なことは、矢を抜いて手当てをすることだ。この宇宙は有限か、無限か?、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれている。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。」 さらに、目覚めた人はこう言ったそうです。  「わたしによって説かれなかったことは、説かれなかったままに受持しなさい。また、わたしによって説かれたことは、説かれたままに受持しなさい」・・・と。

 つまり、こうした時は毒矢を抜くことが先決であるように、死後の世界を考えるよりも、今いる自分の世界をなんとかすべきなんですね。どうも、死後の世界と涅槃とはちょっと違うような気がしてきました。
煩悩の火を消してみよう

もういちど煩悩の火を消して見ましょう。自分の欲をどんどん消して行くとどのようになるのでしょうか?
お金もいらなきゃ。女もいらない。物もいらない。仕事をして出世しようとも思わない。人に認めらなくてもかまわない。うーん。どんどん自分が小さくなって行くなあ。ついでにうまく瞑想しようなんて考えに固執しそうだから、瞑想の基本の息をするのも止めて見よう。うまく生きようとしなくていいのだから、考えることもやめてしまおう。
うっつ。苦しいぞ、息を止めたら苦しいじゃないか。
心の安らぐ状態を求めているのにかえって苦しいぞ。これはなんか変だ。それに考える事を止める事なんてできないぞ。考えを止めようとしているときは、「考えるのを止めよう」と考えているのだから、意識して止める事はできないんだ。
やっぱり変だなあ。なにか基本的な事を忘れているような気がする。
そうだ、今の私はやはり執着しているんだ。涅槃を求めようとして「涅槃」に固執している。これは、物事の両極端を求めない「中道」に違反しているんだな。じゃあどうすればいいのだろう。息を止めようとしても止まらないのは仕方がない。自然に息はしないと駄目だな。考える事は止まらない。だからやっぱり考える事は認めなければ。今まで私は自分を否定しつづけてきたけど、素直に自分を認める事ができないといけないような気がする。消そうと思って消える煩悩は消せばいいし、消そうと思っても消えない煩悩はそのままにして生きて行く事しか私にはできないんだ。そう考えるととても楽な気持ちになれる。そう考えるといろいろのことが受け入れられるような気がする。無理に楽になる事が楽になることじゃなくて、自分自身を素直に認めて、周りで起こっている事を素直に受け入れる事が涅槃にちかづくことなんだなあ。そう言う生き方しか人間はできないのだから。
やっと涅槃に近づいたような気がする。でも何か忘れているぞ。
そうそう、そう言えば「空」はどうなったのかな。最初に覚えたお経「般若心経」は一体何が言いたかったのだろう。

十二縁起
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