人は他人との交流の中で他人とはどんなものかを知ると同時に、そんな他人と比較して
自分はどんな人間なのかをさぐっていくようです。あの人は自分からみるとこんな人だ
と思う。あの人が自分のことをこんな人だと言っていた。このような交流を複数の人と
行う事で、自分はこんな人間なんだといったことをおぼろげながらつかんでいきます。
他人から返される自分に関する僅かな情報を積み上げたものと、自分の内側からこみ上げ
る感情を他の人の行動と照らし合わせて、「自分の内側からこみ上げる何か説明で
きないものを、他人はどうも怒りと呼んでいるようだ。」といった概念が寄り集まった結果が
自分の意識できる自分と言えるかもしれません。
このような他人との係わり合いの中で、人は自分を理解し、他人を理解し、そんな関係の中で
どのように生きていけばいいかを学んでいきます。
もし、このような交流が一切なされなければ、自分が何物であるかもはっきりしないし、
どのように世間と対していけばいいかもわかりません。
親の不適切な交流、例えば、親の願望の押し付けとか、子供の気持を汲んでやるような
対話の欠如。あるいは、親だけではなく、仲間によるいわれの無いいじめ、虐待などがあると、
他人との交流の機会を奪われ、自分が何物であるかを他人から学ぶことができなくなってしまいます。
そうなると、どこかで自分探しを行うための交流のやり直しをすることが必要になります。
親との関係でつまずいた人は、世間に出て行く前に家に引きこもって、親との関係をやりなおすようになるかもしれません。
2001年文藝春秋の別冊で「新幸福論」という本が出版されました。
123人の著名な人が幸福について自分の感じていることや考えていることを
書いた本でした。
人それぞれに幸福というのは違っているのですね。
ただ、戦争を経験した人は「生きているだけで幸福」という人が多いのに対し
て、戦後の人達にはそのような幸福を感じる人が少ないと言う傾向があるみた
いです。
そのなかで気づいたことは、幸せという状態は、何らか押さえつけられた状態
があって、そこから開放されたときに感じるものではないか?ということです。
死ぬほど辛い戦争体験をした人はただ生きていることに幸せを感じるし、
何かを成し遂げたときに幸せを感じる人もいます。
ビールを一口飲むことに幸せを感じる人もいます。
自分を押さえつけるものが大きければ大きいほど、そこから抜け出したとき、
ほんのささいなことで幸せを感じることができるような気がするのです。
死ぬほど辛い思いをした人が、ただ花をみるだけで幸せを感じることがで
きたり、ふとした風景にほっとした何かを感じたり・・・。
つまり、落ち込みがあるから幸福があり、幸福があるから、落ち込んだときに
悲しくなるということらしいです。
私としては、落ち込みをなくすためには、気分の高まりもなくさなければなら
ないと思います。それができないのであれば、気分が高い時は高いなりに生き、
気分が落ち込んだ時は落ち込んだなりに生きるしかないと思います。