親の自我状態から発する場合の相補交流を見てみましょう。
親の自我状態でいるときは何かを批判しているとき、つまり支配的な親CPから発するときと、
誰かを養育的に支えているとき、NPから発しているときです。
お互いの自我状態が親同士であるときは発言の対象は会話している当人ではなくて第三者に向きます。
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例えば
「世界貿易センタービルを破壊した奴らは許せない」
「そのとうりだ、あんなやつらは報復を受けるのが当然だ」
とか
「犠牲になった人達はかわいそう」
「なんとかその人達の支えになってあげたいね」
です。
このような交流は雑談(時間の構造化で説明します。)のときよく使います。
一方が親の立場で話し、相手の大人(理性)に語りかけるとそれも相補交流になります。
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「この部分を修正してはどうだろうか」
「そうですね。そうします」
とか
「この書類はここがよく書けていますね」
「ありがとうございます」
発言する側が相手より権威のあるとき、
その場にふさわしい発言ができることはそんなに悪いことではありませんね。
一方が親の立場で話し、相手が子供の立場で話すとそれも相補交流になります。
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「宿題しなさい」
「はい、します」
とか
「このチョコレートあげるよ」
「ワーイ嬉しい」
というように相手が素直に同意してくれれる交流なら何の問題はないですね。
親から子供への発言は発言する側の自我状態がCPの場合、相手を威圧するような発言になります。
しかし、相手に危険がせまっているときなどは必要な発言になります。
また、ストレス発散などで使われるのもCPからの発言です。
このようなCPからの発言はネガティブな発言としてみられるようになりました。
そういった事情があるのでしょうか、近頃、CPからの発言が学校教育の場や家庭教育の場では、
あまり見られなくなったような気がします。
子供を萎縮させないためにCPからの発言を控えることが多いようにも思います。
先生が何かを生徒にしてもらいたいとき、「〜しなさい」と言っていたのが、
今では「〜しましょう」になっています。
このように育てられた子供が実社会に出たら「〜しなさい」ならまだしも
もっと刺激的な言葉で支持されることを考えると
ちょっと現実の社会に即した指導とは言えないような気がします。
それに、絶対にしてはいけないことに対しては、きちんと「それは駄目」というふうに
きちんと価値付けをすることを誰かが示さなければなりません。
そのときは、無条件に「だめ」と相手を非難するのではなく、
「ここのところがこういうふうにいけない」と条件を示してCPから発言してください。
世の中にはしてはいけないことがやはりあって、
それを理解し、その行為はしないように自律的に行動できることが、大人になるということです。
そういったことを自分の子供にきちんと示せないと大人とは言えないし、まして、親とはいえません。