大人の自我状態は親の自我状態や子供の自我状態にその機能を奪われてうまく働かないときがあります。この状態を「汚染」とよび、「親からの汚染」「子供からの汚染」があります。大人の自我状態が汚染された状態について説明します。
成人Aの中には親からのスローガンがあたかも理性のように備わってしまっているところがあります。これを親からの汚染と言います。
眸の場合の親からの汚染は「男は黙ってサッポロビール」という昔のCMにあった言葉に代表されるものです。この言葉は私の水泳の恩師がいつも口にしていた言葉です。
辛い事があっても男というものは歯をくいしばって頑張り続けるものだ。
とか、
言いたいことがあっても黙って自分の気持の中に収めて、酒を飲んでも自分の思いは外に出してはいけない。
といったスローガンです。
これは自分が元気なときはそれで我慢できて世間とは波風を立てない好都合なスローガンではあります。
好都合というのは、私にとってはではなくて、むしろ労働者が黙々と働くことを推奨できる経営者側にとっては
というような気が近頃していますが・・・。
そういう風潮をよしとする社会が男社会にはあります。
しかし、飲み会などで自分を出して騒ぐような場面ではむしろマイナスに働いて、自分だけが孤立するようになってきます。
さらに、仕事などがうまくいかないときや、しんどいときでも、そのスローガンは呪文のように働いてしまいます。
そして、周囲に助けを求められないようになってしまいます。
それを親が言っていた不適切なものだと思えればいいのですが、私はそのスローガンをあたりまえのように吸収していました。
私は「男は黙ってサッポロビール」をとても合理的なものとしてほとんど理性として扱っていました。
この親からの成人へ汚染された自我状態は認知療法で指摘する自動思考とほとんど同じものにあたると思います。
子供からの汚染は感情が理性的な行動を阻害するようなことを言います。
私の場合、子供からの汚染というのは最初自分では意識できていなかったのですが、
どうも私の場合は自分が血を流すことに非常なおびえがあることがわかってきました。
私は血を見る事を極端に恐れているのです。
子供の頃親指を誤って切って沢山の血が流れ自分ではどうしようもなくなって、
気付いた母親に病院に連れて行ってもらった怖い経験が原因ということが頭ではわかっています。
でも、その後、私は血にまつわる話を聞かされると、ほとんどの場合、私の意識活動は停止してしまいます。
高校の体育の時間に生臭い胎児の写真を見た瞬間に貧血を起こして倒れ込みました。
デートに誘って彼女と映画に行ったのはよかったのですが、彼女がスプラッタ映画大好きの人で、
私はスクリーンを見つめることも出来ずにそれでサヨウナラになったこともありました。
免許の更新時に交通事故のなまなましい状況や手術の様子を見せられると、
うつむいて、その時間が過ぎさっってくれることを待つ事しかできません。
父親がガンの手術をするというので、お医者さんが手術の内容を家族に説明することになり、
母親と一緒に聞いていたのですが、詳しい術式の話になってくると気分が悪くなり、
手術を受ける親は平然と聞けているのに私は病院の待合室のソファーで横になるしかありませんでした。
その手の話は絶対駄目です。
多分、ホルマリン付けの胎児の気持ちや切り刻まれている人の気持になってしまっているのだと思います。
そういう想像をしてしまうともう駄目ですね。
ただ、最近では、自分が親として接しないといけないとき、
例えば、子供が怪我をしていて、絶対私が対処しないといけなくなったときは、
どういうわけかわりあいと意識はしっかりしています。
自分の子供ですから自分が怪我したように感じてしまうのですが、それでは、いけない。
なんとか傷口を洗って病院に連れて行かなければと思うとちゃんと処置することができる自分がいました。
リストカットの人のメールをいただく事がありますが、その人の気持になろうとしてもちょっと無理です。
そのたびに私が貧血起こして倒れていたらこちらもたまりません。
ですが、その人のために何かできることはという立場(親の立場)で私がいられると割合と怖がらずに聞く事ができます。
このあいだ、私は、頭を2針縫う怪我をしてしまいました。
頭ですから、傷口が自分で見えないのがよかったのかも知れません。
でも、頭を洗っても血が全然止まらない状態だったので普段の私ならその場でダウンしていたはずなのです。
しかし、子供がその様子を見ていたので、親としては子供に心配させるわけにはいきませんね。
自分で救急病院を探して、自分で車を運転し、ようやく病院にたどりつくことができました。
処置室につれてこられた私は、ほとんど切れないはさみで髪の毛を引き千切られるような痛い思いをしました。
(怪我よりも髪の毛を切られるほうがよっぽど痛かった)
そこで、貧血でもおこってくれれば幸せだったのかもしれません。
それでやっと手術で麻酔の注射をしてもらったのですがそれがまた痛いのなんの。
麻酔注射が終わってお医者さんが縫ってくれたのですが、麻酔は全然効いていなくてこれがまたとっても痛い。
あの麻酔注射は一体なんだったんだ、消毒液でも注射したのかと思いながら、
「痛い」と医者に言っても、「麻酔がきかないんですね」と言わたきりでした。なので我慢していると、
「あれ、麻酔が効いてきたのかな」などと医者に言われ、それは違うと思いながら
「痛いよ。でも私は子供でないから我慢しているんだ。私の痛みは私でなんとかするから、
あなたはあなたのできることをして下さい」と言って手術台のシーツを握りなおして耐えました。
後で子供に聞いたら、血を流しながらにっこり笑うお父さんはちょっと怖かったらしいです。
そういうことがあってなんとか私の場合は気分を持ちなおせるような気がしています。
もしかして、子供の前なら自分がガンの手術をするとき冷静に聞けるようなそんな感じが今はしています。
でも、実際その場になってみないとわかりませんが・・・。
親からの汚染と子供からの汚染を比べると、親からの汚染の方が対処しやすいです。
親からの汚染は汚染と本人が気付いた段階で汚染は回避できます。
でも、私の書いた文章の長さや質の差からわかるとおり、子供(感情)から受けた汚染はなかなか回避できません。
子供からの汚染には行動療法的なアプローチが有効であるような気がします。