悩みと共に(抑うつ 神経症 気分変調 うつ病 摂食障害)

すんだひとみ
澄んだ眸
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親の自我状態

 親の自我状態は社会生活を円滑に維持するために必要な構えが含まれます。子供は自分の養育者の態度をまねて自分の中に取り込んでいきます。こうしてできたのが「親の自我状態」です。
 この「親の自我状態」は社会の規範をしっかり守る「支配的な親」と人に援助をする「養育的な親」に別れます。

 自分の養育者から受け継いだ自我状態

支配的な親

 養育者は子供を批判したり、指示したり、社会的な規則を教えるときがあります。子供はこのような態度を記憶し自分の中に取りこみます。
 このように取りこんだ養育者の「支配的な心の状態」を「支配的な親の自我状態」「Controlling Parent 」略して「CP」として考えます。
 様々な事柄を批判したり、意味付けや方向付けを行う心の働きが支配的な親の自我状態です。
 支配的な親の自我状態の対象は他人だけでなく、自分自身に対しても向けることが時には必要で、この心の働きがないと自分自身を意味付けできなくなります。

CPの役割

 CPは物事の価値付けをする機能があります。この機能がないと、物事を決定することができません。会社の社長さんや管理職の人たちのようなリーダーは組織や仲間が目指す目標を設定する大きな使命があります。この人たちにCPが不足していたら、組織の統制はとれず、集団をあるべき方向に導くことはできません。


CPが高いと感じる人(眸の独断と偏見)
誰がどのようなところが
大原部長両津勘吉の上司。「コラ両津」が口癖。
管理職会社をあるべき方向に起動修正するのが管理職の仕事。
警察官法律をきちんと守らせるのが警察官の仕事。

「CP」について一言

 7歳の女の子がいました。彼女は1歳半で、光と音の世界から完全に遮断されていました。しかし、家庭は裕福で、家族からは愛情を注がれていました。そんな彼女に家庭教師がやってきました。その家庭教師が最初にしたことは、その女の子にテーブルにつかせて食器を使って食事をさせることです。家庭教師と女の子は壮絶な取っ組み合いを繰り広げ、その様子は家族が直視するには耐えられなかったほど凄かったらしいです。さらに、この家庭教師は女の子に綴り方や勉強や発音を正確に教えるために物凄い勉強をしたそうです。そして、その女の子は成長し「障害者の自立と社会参加」を社会に対して訴えるようになりました。その考えはわが国の障害者福祉法の制定などにも大きな影響を与えたえました。もうおわかりですね。この女の子はの名前はヘレンケラー。彼女の家庭教師はサリバン先生です。
私の娘が借りてきた「ヘレンケラー」の漫画を読んで、私は「ヘレンケラーも偉い。けれど、彼女以上に偉いのはサリバン先生ではないか」という感想を持ちました。サリバン先生が行った教育はヘレンケラーを思いやる「NP」の部分が確かにあると思います。しかし、その教育を実質的に支えたのはCPの働きです。サリバン先生が取っ組み合いをしてでも食事の仕方を教えなければ、人と対等に付き合うということをヘレンケラーは学べません。「世の中のことを自分がきちんと理解しなければ、ヘレンケラーの為に何もしてあげられない」と自ら勉学に励むためにはかなり強いCPが必要です。 もし彼女がCPを発揮しなければ、目も耳も不自由な人が自分の考えを声に出して話すという「奇跡」は起きなかったと思います。今の障害者福祉も大きく立ち遅れていたかもしれません。そして私は思うのです。カウンセリングがクライアントの行動変容を支援する言語的非言語的なコミュニケーションであるならば、光と音の世界から完全に遮断されている人の自立と社会参加を引き出したサリバン先生は非常に偉大なカウンセラーだと。人の行動を変えるには確固たる信念も必要なんだと・・・。

養育的な親

 養育者は子供の欲求が何かを感じ取りったり、いたわったりします。子供はこのような態度を記憶し自分の中に取りこみます。
 このように取りこんだ養育者の「養育的な心の状態」を「養育的な親の自我状態」「Nurturing Parent」略して「NP」として考えます。
 他の人の面倒をみようとか、助けてあげようとする心の働きが養育的な親の自我状態です。
 養育的な親の自我状態の対象は他人だけでなく、自分自身に対しても向けることが時には必要で、この心の働きがないと自分自身を大切に扱うことが困難になります。

NPの役割

 NPは他人を助けてる機能があります。この機能がないと、他人を育てるということができません。学校の先生やコーチのような指導者は組織や仲間がより良い生き方ができるように指導したり、集団を維持する大きな使命があります。この人たちにNPが不足していたら、組織の協調性は得られず、集団を包み込み、まとめていくことはできません。


NPが高いと感じる人(眸の独断と偏見)
誰がどのようなところが
マザーテレサノーベル平和賞の受賞者でありながらも、恵まれない人と接することを最後までやり通したところがそうだと思います。
ナイチンゲール敵味方の区別無く人を看護することに一生をささげた人。
「マザーテレサ」について一言

 徹夜明けの午後、寝ているのか、起きているのかわからないまま、私は本屋にいました。こんなときは、誰かに慰めてほしいものです。そんなわけで、文庫本「マザー・テレサ 愛と祈りのことば」を手に取りました。ノーベル平和賞をもらう人なら哀れな私にも情けをかけてくれるにちがいないと思いました。
 読んではみたのですが、全然慰められませんでした。マザー・テレサの言葉が重いのです。徹夜明けのしんどさも手伝って、その後しばらく、その本は開けませんでした。
 数日経って、またその本を読んでみました。そして、マザー・テレサの言葉は慰めを求める人に対して語っている言葉ではないことに私は気づきました。それは彼女が彼女自身に語っている言葉なのです。私は「しんどいのね。休みなさい」というようなNPからACへの言葉を求めていました。しかし、マザー・テレサの言葉は「親切にしすぎて間違いを犯すことの方が、親切と無関係に奇跡を行うことより、好きです」のようなNP同士が語り合う言葉なのです。本を読んでいた私は大人同士の内輪話を聞かされる子供のように居心地が悪かったのです。
 さらに、マザー・テレサの神に対する考えが私とは全く正反対の方向を向いていることに気がつきました。これまで私は「神様は人の上にいて人を導くような存在」だとずっと思っていました。しかし、マザー・テレサは「見捨てられた人の中に神様を見ている」のです。誰にも見向きもされずただ死を待つだけの人に奉仕することが彼女にとっては神に奉仕することなのです。
「本当のNPで他人に接することは、その人の中に神様をみつけること」
ということが私には見えたようです。
 時々悪魔のようの思える人の中に神様とか仏様が見えないと本物とは言えないようです。でも、私は誰かに親切にすると、「フランス料理ぐらいはおごってもらえる」なんて考えが浮かんできます。その人の中にフランス料理を私は見ているのです。私のエゴグラムはAを中心にした「山形」です。それが、NPを中心にした「への字」のエゴグラムへ変わる道のりはまだまだ遠いみたいです。

子供の自我状態
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