悩みと共に(抑うつ 神経症 気分変調 うつ病 摂食障害)

すんだひとみ
澄んだ眸
clear aspect

学習

 医者がぱらぱらとめくった「いやな気分よさようなら」をじっくり読んでみて、気付いたことは、自分の受け取り方がかなり歪んだものであることでした。

 人がある事象を受け取って何かを意識する間には、その人独自の受け取り方があります。人の受け取り方によって事態は全然異なったものに見えるということもわかりました。

 お葬式を「親戚と話す滅多にないチャンス」と受け取ることと「親戚にうつになった自分がばれるのが嫌だから・・・」と受け取っているのとでは、その思いによってあらわれる行動が大きく変わってきます。前者なら葬式の後、親戚と一生懸命話すでしょうし、後者なら家にじっと引きこもるということになります。今回私は葬式に出たのですが、もし家に引きこもっていたら、葬式に出てこない息子の理由を問われた父親が、理由をいいにくそうな態度をとれば、変な誤解が生じていたかもしれません。

 同じことが起こっても、その受け取り方に介入し、より生きやすい受け取り方に補正できれば気分は変わる。気分が変われば行動が起き、結果が出てくるくことも理解できました。

 そして、自分の考えに多くのこだわりがあることに気が付きました。

 「他人の為なら自分は少々傷付いてもかまわない」といった考えや、「年相応の仕事ができないと、私の人生はもうだめだ」といった考えがずっと私を支配していたことに気づいたのです。

 そして、このような受け取り方をする私とは仏教の教えの「空」のことだともうすうす感じていました。

 認知療法を勉強していると、最新の心理学が求める心の安らいだ状態が仏教の悟りの状態と近いことにも気づきました。 愛情や仕事や他日からの承認に頼らない生き方は、我執や煩悩から離れた涅槃の境地と同じではないかと思います。

 一言でこの涅槃の状態を説明するのは難しいのですが、「全ての欲を捨て去ること」とでも言いましょうか。「たとえ、お金や、職業や、恋人や、名誉なんかみんな無くても、自分が何にもできなくても、自分には価値がある。何は無くとも笑って生活できれば、それでよい。」と考えるようになったのです。

 ただ、この時点での感覚は「楽になるためには執着を捨てれば良い。」という楽な境地を享受するだけの「三昧」の境地に留まっていたように思います。

 「無条件に不完全な自分、他人、世間の存在を受け入れる」悟りの境地にはまだ届いていなかったように思います。

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